寒川神社の御祭神が教えてくれたこと

皆さん、こんにちは!神奈川県は高座郡寒川町に鎮座する寒川神社の御祭神について書きたいと思います。

その前に、読者の皆様に御礼を申し上げます。先日、タケミナカタさんの諏訪神社に参拝したところ、タケミナカタさんがとても喜ばれておられたのです。なんと!当ブログを読まれた方が、諏訪大社・諏訪神社に参拝に来られたとのことでした。

ご参拝くださった方々に改めて感謝申し上げます!こうしてブログに書くことで、神社に足を運ぶ方が増え、御祭神、そしてブログ運営にあたる私が幸せに感じ、感謝と愛の循環が起こることは何よりも嬉しいことです。ありがとうございます!

しかも!まだ当ブログでご紹介していないタケミカヅチさんよりも同様に、読者の方が参拝者が来られたと伺っております。

本当にありがとうございます!

寒川神社の参拝きっかけ

寒川神社は相模国一之宮社であり、八方除けで霊験あらかたな神社で、東京出身の私も名前を聞いたことがある神社でした。主人の両親が崇敬しており、毎年正月には混雑を避けて、中旬ごろに参拝していると聞いていました。(正月三箇日の参拝者数は、なんと!50万人にものぼるのだとか。)

神奈川に嫁にきた者として、ご挨拶に伺わねばと思っていた矢先に寒川神社の御祭神が呼んで下さいました。

すっきりした寒川神社の境内

有鹿神社の記事でも紹介しましたが、寒川神社の御祭神は寒川比古命、寒川比女命です。

初めて参拝した時『こんなにすっきりした神社は初めて見た』と思ったのです。八方除けに霊験あらかたなせいか『魔を寄せ付けません』という雰囲気なのです。

寒川神社の凄い所は御祈祷の依頼数全国一を誇ります。私が参拝した神社では、土日祝日には昇殿参拝者の姿を見かけますが、平日に御祈祷を依頼する人はまばらでした。

しかし、寒川神社は違います。年間を通じて、朝から夕方までひっきりなしに祈祷を行っている神社なのです。

寒川神社を描写するならば、荘厳かつ華麗由緒正しい、霊験あらかたな神社という形容が相応しいでしょう。立派な境内には神嶽山神苑というお庭まであり、御苑さながらの風情です。

雄大な敷地を誇る鎮守の杜には、龍神様が心地よさそうに泳いでいます。上空には鳳凰様も優雅に飛んでおられました。なのでこちらは皇位継承者に縁の神社ということですね。

神嶽山神苑は御祈祷すると見学できる

寒川神社の御祭神

初めて、寒川神社に参拝した当時は、日本の神社の祭神は渡来系、ユダヤ系、秦氏であるという歴史書や文献を読んでいたので、

『果たして、本当にそうなのかな?』と考えていたのです。

そんな私の心を読まれたのか、寒川神社の御祭神は『昔から(日本の地に)住んでおる』と仰ったのです。つまり『純日本人』という訳です。(昔は日本という国名ではなかったのですが)

何十万年前に様々な地域から日本列島にやってきた人はいると思うのですが、少なくとも上古代において外国からやってきた人ではないという意味ですね。

『そうなんだ~。』とびっくりしたのです。

子どもに目をかけてくださる御祭神

寒川神社の御祭神は、寒川神社に暫く足が遠のくと呼んで下さいます。先日も呼んで下さり、喜んで家族で参拝しました。てっきり私が呼ばれたのかなと密かに喜んでいたら、境内で撮影した家族写真を見返すと、息子の周りにだけ光の玉や虹が写っていました。

『呼ばれたのは息子だったのか。』と思ったのです。ソサノヲ(素戔嗚尊)さんもそうですが、本当に神社の御祭神は子どもを大切に思ってくださいます。

寒川神社の神様(本当は人なのですが)は定期的に『息子はどうしておる?』『息子の参拝に来るがよい』と声をかけてくださるのです。

寒川神社の御由緒は神亀4年(727年)には社殿が建立されたという説があります。

更に、ソサノヲ(素戔嗚尊)さんを慕っていたヤマトタケ(日本武尊)さんが寒川の地にソサノヲさんを祭る社を建て、後年寒川神社となった説があります。参考図書:ホツマで読むヤマトタケ(日本武尊)物語 池田満氏:著書より

しかし、寒川神社の御祭神はソサノヲさんではありません寒川比古命、寒川比女命の名前はどの歴史書にも名前が出てこないのです。

そんなある日、いときょうさんの著書 古代史ホツマツタヱの旅 第3巻を読んでいたら、寒川神社の祭神はウビチニ・スビチニ様ではないかという記述を見つけたのです。

ウビチニ・スビチニ様

ウビチニ・スビチニ様とは第四代アマカミ(上古代の天皇を指す)になられた方です。ウビチニ・スビチニ様の時代に結婚の形が生まれました。

ウビチニ・スビチニ様
ウビチニが桃の木を植え、三年経過したころスビチニと結婚しました。桃の花が満開の時でしたので、お二人はモモヒナギ・モモヒナミと呼ばれました。旧暦三月三日に結婚の儀が執り行われました。

日暮れ近くでしたので、空には月が出ていました。桃の木の下で白酒が酌み交わされました。(古代史ホツマツタヱの旅 第4巻 いときょう氏著より)

寒川神社の御祭神がウビチニ・スビチニ様であれば、寒川神社の上空に鳳凰様が飛んでおられたのも納得できます。スビチニ様はわが国で初めて日本酒を発見された方でもあります。

寒川神社の御祭神がウビチニ・スビチニ様だという根拠がもう一つあります。

寒川神社の御祭神はお酒好き?

ある時、寒川神社の眷属が『こちらの御祭神はお酒が好きで、お酒をお供えすると大変お喜びになる』と教えてくれたのです。

もし寒川神社の御祭神がウビチニ・スビチニ様であれば、きっと桃のお酒を喜ばれるのでは?と思い、桃のお酒をお供えしたのです。

いつも寒川神社で参拝すると拝殿にはサワサワと優しい風が吹くのですが、その日はザワザワ、ゴーと強い風が吹いたのです。

そこで私は『あのう、もしかしてウビチニ・スビチニ様ですか?』と聞いたのです。そしたら『そうだ』とお返事されたのです。

『やっぱりそうだったんですね!?』と嬉しくなりました。

寒川神社の神宮大麻

もう一つ寒川神社のエピソードがあります。実は、当ブログである日神宮大麻を購入したら、善なるエネルギー体を連れて帰ったというエピソードを書いたのですが、実は寒川神社の神宮大麻だったのです。

当初はどの神社で神宮大麻を購入しよう決めかねていたのですが、寒川神社の御祭神に呼んでいただいたので、寒川神社で神宮大麻を購入しました。

神宮大麻を購入した後で、夫が運転する車の中で眠るこけ、神宮大麻と共に善なるエネルギー体を連れて帰り、そのエネルギー体の方が我が家の神棚に鎮座されています。

寒川神社のエピソードはまだまだあります。

ある日私は、この世の多くの人のためになるようなお願いごとをしました。いつもはお願いごとをしてもお返事を頂けないことが多いのですが、その時は『そなたの願い、叶えられたし』と御祭神が仰ったのです。

『そなたの願いをかなえてあげよう』ではなく『そなたの願いは自然と叶うであろう』と仰ったのです。

このように、参拝者に目をかけてくださる寒川神社の御祭神は本当に愛ある方なのです。モモヒナギ・モモヒナミ様にお会いできる素敵な神社に是非訪れてみてください。

その他にも寒川神社のエピソードは沢山ありますので、また別の機会にブログでご紹介できればと思っております。

最後までお読みいただきありがとうございました!

箱根山上空に現れた鳳凰:オシホミミ様

こんにちは、今日は神奈川県箱根に鎮座する箱根神社について書きたいと思います。江島神社と並ぶほど神奈川では有名な箱根神社、箱根山一帯は強力なパワースポットでもあります。それもそのはずで、箱根にはこの国の発展に尽力された、とても尊い、凄い方が眠りについておられたのです。

美しい朱塗りの箱根神社

箱根神社の由緒を見ると、第五代孝昭天皇の時代に聖占仙人が箱根山の駒ヶ岳に神仙宮を開き、同主峰の神山神体山としてお祀りされたとあります。

御祭神は瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)、木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)、彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)です。

瓊瓊杵尊とはホツマツタヱで言うところの、ニニキネ様を指し、アマテルカミ(天照大神)のお孫さんにあたる方です。奥様のコノハナサクヤヒメ(アツシヒメ)は、静岡県三島を本拠地とした四代目ヤマスミのカグヤマさん江島神社の御祭神エノシマカミであるタキコヒメとの間に生まれた方です。

タキコヒメがアマテルカミの娘なので、コノハナサクヤヒメニニキネ様と同様にアマテルカミの孫になります。

アツシヒメニニキネ様との間にムメヒト様、サクラギ様、ウツキネ様の三つ子の男の子を授かります。三男のウツキネ様ホオデミと呼ばれました。つまり、彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)とはホオデミ様のことです。親子・夫婦で仲良く祀られています。

箱根神社は開運厄除・心願成就・交通安全・縁結びに御神徳の高い神社と言われています。箱根山全体が強力なパワースポットなので、開運したい方におすすめの神社です。

心が洗われるような杉の正参道

箱根山のみどころ

箱根神社の他にも、芦ノ湖の守護神・九頭龍大神を祀る九頭龍神社も霊験あらたかな神社です。九頭龍神社は箱根園・ホテルザ・プリンス箱根芦ノ湖から徒歩30分の場所にあります。ホテル ザ・プリンス箱根芦ノ湖のレンタサイクルも利用できます。(有料)

芦ノ湖畔に鎮座する九頭龍神社

箱根神社の神体山である「神山」を拝する箱根元宮も鎮座しており、箱根駒ヶ岳ロープウェーで山頂に上るとお参りできます。箱根神社、九頭龍神社、箱根元宮をすべて参拝する三社参りを行うと、より御加護を頂けます。

御祭神にあいさつ

箱根神社には夫と何度も足を運びました。御祭神の瓊瓊杵尊様は天孫降臨で有名な方で、九州の高千穂の地でお亡くなりになりました。

九頭龍様のありがたい手水舎

九頭龍様の手水舎で身を清めて、御祭神に挨拶に伺いました。、、が、御祭神がおられない!というか繋がれませんでした。『うーん、なんでだろう』と首をかしげて、今度は芦ノ湖の九頭龍神社に向かいました。

九頭龍神社でも御祭神とは繋がれませんでした。『えーなんで???』という感じだったのです。

九頭龍神社は龍神様がおられる神社で有名なのですが、龍神様にもお会いできませんでした。龍神様の数で言えば、圧倒的に江島神社の方が多いのです。『なぜ、龍神様で有名なんだろう???』と、ここでもハテナマークが浮かんだのでした。

箱根ロープウェイで大涌谷へ

箱根一帯は見どころが沢山あり、一日で全てまわるのは大変です。そのため、観光しきれなかった名所は日を改めて訪れていました。

ある日、芦ノ湖の海賊船で箱根町港から桃源台港まで行き、箱根ロープウェイ大涌谷へ行く旅程を組みました。大涌谷は約3,000年前の噴火によって神山が崩壊して出来た箱根有数の観光名所です。現在も大涌谷一帯は硫化水素を含む噴煙が立ちのぼっています。

圧巻の景色の大涌谷

大涌谷を見学していたら、なんと龍神様がおられました。『なんだ~ここにおられたのか~。』と納得したのです。『なんで山の上なんだろう?』と不思議に思いました。

そして、箱根山一帯の景色に見とれていたら、なんと、鳳凰雲が現れたのです。

写真真ん中あたりに見える横向きの鳳凰雲

急いでシャッターを切りましたが、雲が風で流れてしまい原型をとどめておりませんが、はっきり鳳凰雲が現れたのです。『あれ?龍神様だけではなく、鳳凰様がおられた~。』と感激したのです。

鳳凰雲が意味するものとは

鳳凰雲を説明する前に、鳳凰について説明します。

鳳凰は「おめでたい事が起こる前兆」と言い伝えが有り、羽のある生物の王とされています。

古代より「徳の高い君子が位に就く時に現れる」と伝えられ、中国における宮中行事において用いられてきました。
株式会社メイクワンサイトより引用

次に、鳳凰雲を説明します。鳳凰雲とは鳳凰の形をした雲です。鳳凰雲を見かけたら、スピリチュアル的に運気アップのサイン願いごとがもうすぐ叶うなど、幸運の兆しを意味します。

実は、もう一つ重要な意味があります。それは、王族(日本で言えば皇族ですね)に縁の方がすぐ傍におられる王族・皇族に縁の方があなたを見守っておられるという意味になります。

さて、鳳凰雲の他にも龍神雲も有名ですよね。龍神雲、または龍雲と呼ばれ、龍神様の形をした雲です。龍神雲を見た場合も人生の転機金運の上昇、運気アップのサインです。

龍神様の形をした龍雲

実は龍雲にも別の意味があります。それは鳳凰雲と同じく、王族(皇族)に繋がる方がすぐ傍におられる、あなたを見守っているという意味になります。

そして、龍雲と鳳凰雲はいずれも王族(皇族)に縁の方を表しますが、鳳凰雲は特に皇位継承者を意味します。つまり、箱根山山頂付近で鳳凰雲を見たということは、皇族、しかも皇位継承者がすぐ傍におられるという意味なのです。

私はてっきりこの鳳凰雲ニニキネ様だと思っていたのですが、松本善之助氏の秘められた日本古代史(続)ホツマツタヱを読んで衝撃を受けました。実は箱根山に葬られた方はオシホミミ様だったのです。

アメノオシホミミ様

まず、オシホミミ様とは誰なのか説明します。オシホミミ様とはアマテルカミ(天照大神)正姤ホノコヒメ(瀬織津姫)との間に生まれた皇太子なのです。

あめのしずくトップの画像はオシホミミ様です

実は当ブログトップページの画像はオシホミミ様です。オシホミミ様第九代アマカミになられた方で、イミナオシヒト様といいます。母のホノコさんが早くに亡くなられたため、琵琶湖のほとりの野洲で叔母のワカヒメ様とオモイカネさんご夫婦に育てられます。

そして、第七代タカミムスビタカギさんからアメノミチトノヲシテ(建国理念)に基づくミチ)を学びます。そして、タカギさんの娘のタクハタチチヒメを姤に迎えます。

オシホミミ様は伊勢神宮外宮に近い上御井神社あたりでお生まれになりました。第九代アマカミに就任後は東北のヒタカミに宮を遷します。そして、テルヒコ(ホノアカリ)様・キヨヒト(ニニキネ)様のお二人が産まれます。

オシホミミ様の終焉の地は箱根山でした。そのため、箱根山の神山は禁足地であったのです。箱根山は活火山であり、現在も登山道は立ち入り禁止区域となっています。

父のアマテルカミより先に亡くなられたオシホミミ様は箱根の地で眠りについておられます。神山が禁足地なのも、静かにこの地を見守り続けたいというオシホミミ様の御意思なのでしょう。

大涌谷を散策していた時に一箇所気になる場所がありました。ふと、誰かが見守っているような気配を感じたのです。くるっと振り返ると立ち入り禁止区域でした。

後日、Google mapを確認したら、私が気になった場所は神山に通じる道でした。きっとオシホミミ様が呼んでくださったのだと思うのです。御祭神は神山におられたのです。

オシホミミ様の優しい愛を感じられる箱根山にぜひ訪れてみてください!最後までお読みいただきありがとうございました!

参考図書:池田満氏 ホツマ辞典

ホツマツタヱの豊受大神、天照大神

こんにちは、ホツマツタヱに書かれているトヨケカミ(豊受大神)、アマテルカミ(天照大神)について書いてみようと思います。

ホツマツタヱでは天照大神はアマテルカミ、豊受大神はトヨケカミと呼ばれ、いずれも男性です。

アマテルカミは当ブログで度々紹介していますが、伊勢神宮外宮に祀られているトヨケカミとは一体どんな方なのでしょうか?

豊受大神とは

トヨケカミはタノミコトの子孫

トヨケカミ

初代アマカミクニトコタチ(古代の日本の創始者)にはト・ホ・カ・ミ・エ・ヒ・タ・メという八人のお子様たちがおられました。それぞれトノミコト、ホノミコトのように呼ばれ、木の実の栽培方法や住居の建て方など人々に教えるために全国に派遣されました。

東北地方に派遣された方がタノミコトです。タノミコトの子孫が代々タカミムスビを名乗って東北地方に繁栄しました。

第五代タカミムスビになられた方がトヨケカミです。この方はとても優れた方で、気候の変化で農作物の減収が減った際に、初代クニトコタチの精神に立ち返り、社会を立て直しました。

この功績から、トヨケカミヒカシノキミとしてオホナメヱ(大嘗祭)を執り行うことが認められました。(池田満氏 ホツマ辞典より)そして、同じくタカミムスビ家出身のアメカガミカミの曽孫であるイサナギ様と自身の娘のイサナミ様を結婚させて、第七代アマカミとしました。

トヨケカミが立てた功績は多岐に渡り、祭祀する神体系を整理して、人々の心をひとつにするように努めました。トヨケカミはまつりごとの達人であり、秀でた教育家でもありました。

その他にも、乗馬法、産医学、金属錬金技術、天地開闢の捉え方、死生観、年中行事を通して民を大切に教育されたのです。

池田満氏 ホツマ辞典の系図を見ると、トヨケカミ藤原氏、忌部氏、物部氏、三輪氏といった著名な氏族の先祖にあたります。

天照大神とは?

アマテルカミは第七代アマカミ イサナギ・イサナミ様の間に生まれた方です。トヨケカミがアメ(創造神のこと)に八千回も祈願されて誕生されました。イミナをワカヒト様といいます。

アマテルカミはあらゆる知識を有していたトヨケカミから直々に教えを受け、優れた指導者に成長されました。アマテルカミは残した業績は多岐に渡ります。代表的なものを以下に列挙します。

  • 全国をブロックに分け、それぞれに勅命治政官を任じた。
  • 刑法では数量的に罪を料るサガを教えるミチ(教え)を制定した。
  • 教育・倫理・哲学の面にも多大な影響を及ぼした。
  • 人の真実の幸せを希求し、善を勧めることを眼目とした。
  • 人とは何なのか哲学的な洞察を深めた。

また、夫婦のミチであるイセノミチ、世継ぎを得るためのヨツギノミチ、長命を保つための食養のミチ、子どもを育てるための教育論なども纏められました。

アマテルカミの治世で人々の生活は豊かになり、人々はアマテルカミを慕いました。アマテルカミは功績を立てた人に褒め名をしるした文書(ヲシテ)を下賜されたのです。アマテルカミは褒め上手でもありました。

ここまでお読みいただくと、アマテルカミもトヨケカミも、素晴らしい指導者であったことが分かります。太古の昔から、民衆に慕われ崇拝されていたことでしょう。

天照大神と豊受大神が女性である理由

一般的に天照大神と豊受大神は女性とされています。なぜ、女性神なのかは諸説あります。

説1:推古天皇を正当化するため

近年において、ホツマツタヱを発見された松本善之助氏推古天皇を正当化するため、蘇我馬子聖徳太子アマテルカミを女性に作為して国史を書き換えたと述べています。

私はこの説は根拠として、少し弱いのかなと思いました。なぜかというと、推古天皇以前に神功皇后がおられたからです。

神功皇后は天皇ではありませんでしたが、夫である仲哀天皇の九州熊襲征伐に随伴し、志半ばで崩御となった夫の意思を継いで、熊襲征伐を達成します。それどころか、海を越えて新羅へ攻め込み、百済、高麗まで服従させています。

それだけ神功皇后に家臣を納得させる政治的手腕があったのでしょう。そして、夫の遺児である誉田別尊(後の応神天皇)を出産し、幼い皇子が即位するまで政事を執り行うなど、実質天皇のような存在でした。

神功皇后を前例とすれば、推古天皇を女帝にするのはさほど困難ではないと思います。

説2:持統天皇を正当化させるため

また、持統天皇が天皇に即位することを正当化させるためにアマテルカミを女性にしたという説があります。私はこれも根拠としては弱いと思います。なぜかと言えば、既に推古天皇がおられたので、アマテルカミ女性にする必要がありません。

それに、説1と説2ではアマテルカミが女性にされた根拠にはなりますが、トヨケカミまで女性にされた理由を説明できません。

説3:仏教を推し進めたかったから

これは私の考えですが、仏教を推し進めたい人たちが存在し『仏教は素晴らしんだ!』と民衆に納得させるために、古くから崇拝対象とされていたアマテルカミトヨケカミをあえて女性にしたのではないかと思います。

ホツマツタヱをお読みいただければ、アマテルカミトヨケカミが素晴らしい人物であったことは明白であり、はるか昔から崇拝の対象とされていたと容易に想像できます。

たとえ、仏教を取り入れても、人々はアマテルカミトヨケカミを崇拝し続けるでしょう。

そのため、重要であったアマテルカミトヨケカミ重要でない人に見せるために、女性にしたとは考えられないでしょうか?現代は女性も政治の場で活躍する時代ですが、はるか昔においては、まつりごとは男性が行うものでした。

いくら偉大な指導者であっても、女性であったならば、男性よりも重要感が薄れる感は否めないのではないでしょうか。

諸説読みながら、ふとそんな考えが浮かんだのです。皆さんはどう思われるでしょうか?

人々を幸せにしたくて様々なミチを説いてきたトヨケカミアマテルカミ。そのミチヲシテ文献(は時代と共に忘れ去られていきました。そんなホツマツタヱが昭和41年松本善之助氏によって発見されたのです。

ヲシテ文献では、古語辞典にも載っていない難解な言葉があるにも関わらず、松本善之助氏や池田満氏などのご苦労のお陰で、こうして上古代のアマカミたちについて記された貴重な文献に触れることができるのが本当に有難いことです。

こうして、ホツマツタヱが発見された背後に、アマテルカミオオクニヌシ クシヒコさんの強い意志や願いを感じてなりません。

ホツマツタヱを読んでから変わったこと

ホツマツタヱが偽書ではなく、本物であると思う根拠があります。ホツマツタヱを読む前と読んだ後で、明らかに御祭神の歓迎ぶりが変わったのです。不思議な出来事も沢山起こるようになりました。

また、神社参拝中になぜか沢山鳥が飛んでくるようになりました。以前は鎮守の森にカラスが雀が数羽いるのを見かけるくらいだったのですが、5~6羽、ある時は10羽近く飛んで来たこともありました。

このブログを書くきっかけとなった神奈川県江ノ島に鎮座する江島神社は海にかかる長い橋を渡って神社に向かいます。ある日『ホツマツタヱを読み始めました。』と江島神社の御祭神にお伝えした帰りに、橋の両手すりに沢山のカラスが止まっていたのです。

沢山のカラスが橋に止まっていた

江島神社には何回も参拝していたのに、こんな出来事は初めてでした。また、コノハナサクヤヒメをお祀りする浅間神社の拝殿で祝詞を奏上していたら、カラスや鳩、雀、オナガなど何種類もの鳥がバサバサっと7~8羽ぐらい飛んで来たのです。

こんなエピソードも、ホツマツタヱを本物と信じてる方の励みになればと思いながら書いています。ホツマツタヱを読むと上古代の人々の温かい心が伝わり、幸せな気持ちになります。

多くの方々にホツマツタヱに触れて頂きたいなと思います。

今日はアマテルカミとトヨケカミについて考察を深めてみました。最後までお読みいただきありがとうございました。

アマテルカミはどちらに?

皆さんこんにちは!毎日暑いですが、体調にはくれぐれもお気を付けください。ホツマツタヱを読んだ私は、アマテルカミ(天照大神)が本当に素晴らしく、日本の上古代の指導者が聖人君子であったことに感激しました。

アマテルカミのイメージ

『そんな素晴らしいアマテルカミにお会いしたい!』と心から願い、『そうだ!アマテルカミが祭られている神社に参拝に行こう!』と思ったのでした。

早速、アマテルカミが祭られている神社に幾つか参拝に出かけたものの、お会いできませんでした。(もちろん伊勢神宮比沼嘛奈為神社に行けばお会いできると思いますが、、、)

もっと近い場所でお会いできないだろうか。。。と思って色々調べたのです。

気になった神社

一箇所気になる神社がありました。いときょうさんの古代史ホツマツタヱの旅 第3巻で紹介されていた神奈川県海老名市に鎮座する有鹿神社です。

有鹿神社

こちらの神社は相模国最古の神社と言われています。相模原市南区にある勝坂遺跡のすぐ傍に有鹿神社の奥宮が鎮座していますが、勝坂遺跡の歴史は縄文時代中期(4500~5500年)に遡ります。

相模川を更に上流に向かうと田名向原遺跡がありますが、こちらは約二万年前の旧石器時代の住居状遺構があるのです。そして、神奈川県伊勢原市に鎮座する比々多神社の敷地内には一万年以上前環状配石(ストーンサークル)が原初的な神社の信仰として残されています。

ストーンサークルは古代祭祀場

びっくりするくらい古い!神奈川の神社

つまりこの地は、悠久の太古から人々が生活を営み、祭祀が行われていたのです。そう考えると相模国最古どころか日本最古クラスと言っても過言ではなさそうです。

神奈川の地は太古の昔から人々が生活しやすい場所だったに違いありません。あまり知られていませんが、神奈川県の神社周辺には縄文時代の遺跡が多数存在しています。

神奈川で歴史が古い有鹿神社寒川神社比々多神社の周辺マップをご覧ください。付近に遺跡が多数存在しているのがお分かりいただけると思います。(google map上で出てこない遺跡も多数あります。)

比々多神社周辺遺跡
寒川神社周辺遺跡
有鹿神社周辺遺跡

参考までに三内丸山遺跡の歴史は縄文時代前期~中期(約5,900~4,200年前)まで遡ります。

有鹿神社が気になった理由

御祭神はアマテルカミ

有鹿神社が気になった理由を説明します。有鹿神社略記によれば、御祭神は有鹿比古命(あるかひことのみこと)です。しかし神社庁のホームページでは大日霊貴命(おおひるめむちのみこと)となっています。

いときょうさんの古代史ホツマツタヱ第三巻よると、大日霊貴命とはアマテルカミのことです。アマテルカミはお生まれになったとき「我はうひるぎである」と産湯につけたシラヤマ姫に告げています。

「う」は大いなる、「ひ」は太陽、「る」はみ魂、「ぎ」はきねの略で男性を意味します。この「うひるぎ」に大日霊貴の漢字が当てはめられました。

いときょうさんは、アマテルカミがお生まれになったときの名前を御祭神にしている有鹿神社は相模国最古の神社に相応しいと仰っています。

もう一つの御祭神名 有鹿比古命

ではなぜ、有鹿神社の御祭神は古代文献にも出てこない有鹿比古命なのでしょうか?実は似たような名前の御祭神を祭る神社が近隣に存在します。相模川下流に鎮座する寒川神社です。

寒川神社の御祭神は寒川比古命(さむかわひこのみこと)です。これは何を意味しているのでしょうか?

一般的に神社の御祭神は天照大神大国主命素戔嗚尊といった方々が有名です。しかし古文献に出てこない御祭神ということは、更に時代が古い方と考えるのが自然です。

あまりに昔の人なので、どこかで名前が分からなくなってしまい、土地の名前を取って、有鹿比古命寒川比古命としたのではないでしょうか?

有鹿神社と寒川神社が最古級の神社と言える根拠

あまり知られていないことですが、この両神社の御神体は湧き水なのです。清らかな湧き水は人々の生活に欠かせません。古代の人は聖なる湧き水を神様として崇めていたのでしょう。

清らかな水は田畑を潤す

湧き水が御神体ということは、比々多神社のストーンサークル同様、太古の昔から祭祀として崇められた地であったため、そのまま信仰の地として引き継がれ、社が創建されたと考えられます。

何故アマテルカミが御祭神になったのか

そして、アマテルカミが有鹿神社の御祭神になっている理由は、いときょうさんも仰っていますが、アマテルカミが古くから崇拝されていたこの地に度々訪れていたのではないかと考えられます。

そのためアマテルカミに縁があるこの地に、大日霊貴命の名前でアマテルカミを祭ったのではないでしょうか?アマテルカミはトノミコトを慕っておられたため、トノミコトに縁が深い富士南麓や大山の麓にも足を運ばれていても不思議ではありません。

第三代アマカミトヨクンヌ様比々多神社御祭神なのです。

有鹿神社参拝前に起きた不思議

私はこの神社であれば、アマテルカミにお会いできるのでは?と思ったのです。有鹿神社は小田急線海老名駅から徒歩15分くらいの場所にあります。途中、上郷南の信号を渡らずに県道46号を歩いてしまい、気が付いた時は上郷南を随分過ぎていたのです。

途中信号が無かったので、結局河原口の信号まで歩きました。河原口の交差点は三叉路になっていて、どの方向行ったらよいか分からなくなってしまいました。

その時、森?林?がある方角からカラスが一羽飛んできたのです。そして河原口交差点付近の電柱に止まり、私の方を向いて「カァー」(違うよそっちじゃないよ!)と鳴いたのです。

『すごい!道案内までしてくれるんだー。』と感激してカラスが飛んできた方向へ歩くと、有鹿神社がありました。カラスは黒いので不吉と言われますが、実は神聖な生き物で、神様のお使いなのです。

カラスのお使いまで来るなんて、これは普通の神社ではないと思いました。

有鹿神社の感想

早速鳥居の前で深く一礼して参拝させて頂きます。拝殿の前で御祭神の気配を感じたのですが、ホツマツタヱに出てくるアマテルカミの雰囲気そのものだったのです。私はすぐにアマテルカミだと思いました。

そして、この神社の波動、、、神奈川県伊勢原市に鎮座する比々多神社のトヨクンヌ様に似ています。

とてもお優しい波動で、ものすごく歓迎して下さるのです。私が自己紹介すると、ニコニコして聞いてくださいます。何も語らないので、はっきりアマテルカミです!と断言できないのですが、私はアマテルカミだと思っています。

それに、歓迎のされ方が明らかに違うのです。歓迎レベルを大・中・小に表すと、特大クラスの歓迎です。ここまで歓迎してくださる神社はそうそうありません。

歓迎のハロも出現

禍々しいものや、悪い波動も瞬時に払ってくださいます。色んなことで悩んでいる方、運気を上げたい方は是非訪れて頂きたい神社です。とても波動が高い神社なのです。

神奈川県伊勢原市に鎮座する比々多神社も、ものすごく歓迎してくださいます。有鹿神社同様とても柔らかい波動を持つ神社です。比々多神社はまた別の機会に紹介したいと思います。

海老名市に鎮座する有鹿神社伊勢原に鎮座する比々多神社霊験あらかたな寒川神社を訪れてみても、ホツマツタヱの時代が従順にトノオシエを守っていたことが伝わるのです。

トノオシエとは初代クニトコタチの建国の理念であり、国の中心のアマカミがアメ(天)の恵みを受けて、国民に分かち合うことです。現代風に言うならば、恵民立国であり、最古級の神社はそれを裏付けている気がしてなりません。

アマテルカミにお会いできる有鹿神社、是非訪れてみてください!

最後までお読みいただきまして、ありがとうございました!

武蔵国総社 大国魂神社の産土神様

こんにちは!今日は東京都は府中市に鎮座する大国魂神社について書こうと思います。叔母がこの付近でお店を営んでいたご縁で、両親がこちらの神社で私の初宮参りと七五三をお祝いしてくれました。

一之宮社を思わせる大国魂神社の立派な社殿

写真には残っているものの、昔のことで全く覚えていませんが、子供の頃に従妹達とお祭りに行った記憶があります。毎年開催されるくらやみ祭りはかなり壮大な規模で行われています。

立派な社殿は一之宮社を思わせる風格です。御祭神は大国玉大神(オオクニタマノオオカミ)です。私にとっては産土神です。創建は景行天皇41年(西暦111年)5月5日と伝えられています。

武蔵国 総社とは?

大国魂神社は武蔵国の総社です。武蔵国とは昔の行政区分の呼び名で、現在の東京都、埼玉県、神奈川県の川崎市と横浜市を含むエリアを指します。現在の府中市にかつては国府(行政の中心地区)が置かれていました。

各国府に赴任した国司は令制国で定められた神社を参拝する任務がありました。しかし、すべての神社を参拝することは忙しい国司にとって大変です。そのため、平安時代に入り、国府の近くに総社を設けることで、各神社への巡回が省かれました。(Wikipedia 参照)

手水舎には立派龍神様

大国魂神社は武蔵国の一之宮から六之宮の御祭神が合祀されています。総社だけあってそうそうたる御祭神です。

社伝によれば、景行天皇41年(西暦111年)に大国魂大神がこの地に降臨し、郷民が大国魂大神を祭る社を創建したことが起源とされています。その後、天穂日命(アメノホヒ)の後孫が武蔵国造に任ぜられ、奉仕を行ったと書かれています。

アメノホヒとは?

アメノホヒとは、ホツマツタヱではアマテルカミとお妃の一人であるモチコさんとの間で生まれた第一皇子ホヒノミコト様のことです。ホヒノミコトは第一皇子でありながら、アマカミに就任しませんでした。

正姤ムカツヒメこと、ホノコさんが生んだオシホミミ様が第九代アマカミに就任されたからです。ホヒノミコトは出雲の国譲り後は、出雲国の統治を任されます。

ホヒノミコトは出雲国造とはいうものの、ソサノヲさんのお血筋ではなく、アマテルカミのお血筋なのです。

オオクニタマとは?

大国魂(オオクニタマ)とはクシヒコさんのことです。クシヒコさんオホナムチさんタケコヒメとの間に生まれました。若い頃はコトシロヌシとして、アマテルカミに仕え、出雲に赴任した父のオホナムチさんの後を継いで二代目オオモノヌシとなります。

クシヒコさんは偉大な業績をおさめたため、多くの称え名がありました。オオモノヌシコトシロヌシの他に、ヲコヌシ、ヲコヌノカミ、ヲヲコヌシ、ヤマトヲヲコノミタマカミ、ヤマトノカミなどと呼ばれました。

クシヒコさんアマテルカミの命により、第十代アマカミ ニニキネ様に従って全国を巡回されたとあります。ニニキネ様灌漑事業を成功させ、飛躍的に国を豊かにしました。

クシヒコさんはニニキネ様の最初の宮、ニハリノミヤ(茨城県筑波山周辺)の造営にも携わっていますので、関東の地に現れたとしてもおかしくはありません。

オホナムチさんも関東には頻繁に来られていたと思われます。

参拝前に来てくださったクシヒコさん

今回大国魂神社に参拝することをクシヒコさんには事前にお伝えしていました。(スピリチュアル次元の話です。)

クシヒコさんは晩年、奈良県の三輪山で入寂されました。そのため、三輪山の麓にある大神神社の御祭神はクシヒコさんです。クシヒコさんは関東の神社にも多数祭られており、スピリチュアル的にもクシヒコさんは関東にも本当に良く来て下さるのです。

クシヒコさんは参拝前に私の所に来てくださったのですが、実は意外なところに来られました。大国魂神社の最寄り駅の数駅手前で来られたのです。

そして、禊の雨を降らせて下さいました。禊の雨とは、参拝前に心身の汚れを祓うために、御祭神が雨を降らせてくれる雨のことです。

禊の雨は何回か経験していましたが、大抵鳥居をくぐってから本殿までの間にパラパラ降るという感じでした。今回のように、最寄り駅の数駅手前で禊の雨を降らせてくださるのは初めてでした。

『本殿に来られない理由でもあるのかな?』と思っていたら、クシヒコさんは案の定、拝殿には来られませんでした。何か事情があるのだなと思いました。

大国魂神社の見どころ

大国魂神社の見どころは何と言っても荘厳な社殿です。

広大な敷地を有する大国魂神社

摂社、末社も多数あり、住吉神社、稲荷神社、アメノウズメさんを祭る宮乃咩神社、水神社、松尾神社などが見どころです。アメノウズメさんは安産の神様として崇敬されています。

境内を流れる小川

境内を流れる小川には紙の形代を流す厄落としもできます。(初穂料1体100円)

クシヒコさんの魅力

クシヒコさんの素晴らしさを挙げればきりがないのですが、常にアマカミと国と民の幸せを考えておられたところです。目上の人の判断が誤っていると思ったら、きちんと諫言されるのです。

クシヒコさんの優しさはご両親譲り

目上の人に気に入られようとするなら、余計な諫言はしないとは思いますが、クシヒコさん違うのです。公を重んじて、民のことを考えて諫言されるのです。そして、傲慢になった父を諌めるために蟄居謹慎処分さえ厭わないのです。

クシヒコさんにとって畏敬の存在であるアマテルカミにも諫言されます。そして、父のオホナムチさんも、外祖父にあたるアマテルカミもクシヒコさんの意見をちゃんと聞き入れるのです。

それはクシヒコさんが本当に愛ある人で、人格者で、人間的魅力に溢れていたからだと思うのです。

クシヒコさんのことはまた別のブログで触れていきたいと思います。それでは本日はここでおしまいです。最後までお読みいただきまして、ありがとうございました!

参考図書:池田満氏:ホツマ辞典

縄文時代に存在した結婚の制度

こんにちは、今日は縄文時代に既に確立した結婚の制度について書いてみたいと思います。結婚の起源は諸説ありますが、ホツマツタヱを読むと、結婚の制度は既に縄文時代後期~弥生時代初期には確立していたようです。

それまでは、多人数郡婚だった結婚制度が稲作の普及に伴い、一夫一婦制度に変わっていきました。ヲシテ(古代文字)文献によると、四代アマカミ ウビチニ・スビチニ様トツギ(結婚)の儀式を執り行ったと書かれています。

ウビチニ様・スビチニ様

四代アマカミ ウビチニ・スビチニ様とはアマテルカミより更に遡った時代に存在されたアマカミ(上古代の天皇)です。トツギを行った場所は、福井県武生市と南条町にまたがる日野山の麓に鎮座する日野神社付近とされています。

福井県 水田の風景が美しい日野山

雛祭りの起源は縄文時代にさかのぼる

トツギの儀式が桃の花が咲く旧暦三月三日であったため、雛祭りの起源となりました。雛祭りは中国から伝わったもの、平安時代の風習など諸説ありますが、ホツマツタヱを読むと、実は遥か昔、神話の時代とされたウチビチ・スビチニ様が起源であったことが分かります。

ウビチニ・スビチニ様とは?

ウビチニ・スビチニ様は第三代アマカミ トヨクンヌ様の後を継いだアマカミです。トヨクンヌ様との直接的な関係は不明ですが、トノミコト、トヨクンヌ様と縁が深い方ではないかと個人的に思っています。

トノミコトは富士山南麓に宮を構えていたので、ウビチニ・スビチニ様もその付近におられたとは思いますが、結婚の儀式は福井県の日野山麓で行われています。

池田満氏著書によると、日野山はひな鳥を彷彿させる形をしており、ひな鳥の象徴としてこの地を選んだのではないかと記載されています。

実際にこの日野山付近は初代クニトコタチの本拠地はヲウミ(琵琶湖付近)からさほど遠くありません。歴代のアマカミはクニトコタチを慕って頻繁にヲウミを訪れていたと思われますので、日野山のことも良くご存じだったのではないでしょうか?

そのため、ひな鳥を彷彿させる日野山の麓で結婚の儀式を行うために、日野山へ行幸されたのではないかと想像しています。

桃の下で儀式を行ったことから、ウビチニ・スビチニ様はモモヒナギ・モモヒナミと呼ばれました。

日本酒の起源も縄文時代

日本酒がつくられた起源にも諸説ありますが、実はウビチニ・スビチニ様の時代から日本酒が作られるようになりました。ある日、スビチニ様は竹株に集まった雀に気が付きました。雀に近寄ると何やら良い香りがします。それは、雀が竹株に入れたお米が発酵した香りでした。

この発見がきっかで酒が生まれました。この記述はミカサフミのニアヤ(アヤ=章)に記載があります。ミカサフミとはホツマツタヱとともに、景行天皇に捧げられた書物です。

なぜ、ホツマツタヱとミカサフミが景行天皇に捧げられたかというと、ヤマトタケさんは亡くなる前に日本国のアメノミチを子々孫々に書き残したいという遺言を残されました。

その御意思を継いで、ヤマトタケさんの御父上の景行天皇はみずからカグミハタという書物を残しました。そしてこの書物に習って、オオタタネコさんがホツマツタヱを、オホカシマさんがミカサフミ景行天皇に献上されたのです。

ミカサフミアマノコヤネ(藤原氏の先祖)さんの子孫にあたるオホカシマさんが同家に伝わる家伝をまとめて書き上げた書物なのです。

ミカサフミ ニアヤ

スビチニ様の時代にできたお酒は白酒でしたが、清酒はソサノヲさんがオロチを倒す際につくったヤシホリが起源となっています。ヤシホリは酒を水で仕込む代わりに、酒で酒を仕込む工程を八回繰り返して作られます。

古代史ホツマツタヱの旅 第4巻 いときょう著参照)

三々九度の起源も縄文時代

ミカサフミのニアヤをご覧いただくと、ここのくみという下りがあるのにお気づきでしょうか?これは三々九度のことです。三々九度とは神前で新郎・新婦が酌み交わすお酒のことです。

日本で結婚の制度が確立したのは比較的近代と思っていたので、実は縄文時代まで遡れるのは本当に驚きですね!

現代の三々九度はどのように行われている?

それでは現代の三々九度はどのように行われているのでしょうか?参考までに説明します。現代の三々九度は一般的に以下の手順で行われています。

  • ①巫女から神酒を注いでもらう
  • ②神酒を三回に分けて飲む
  • ①、②の手順を繰り返す。

お酒を飲む順番は以下の通りですが、簡易手順もあります。

  • 一献目では新郎→新婦→新郎
  • 二献目を新婦→新郎→新婦
  • 三献目を新郎→新婦→新郎

最後に

今回は結婚の儀式は縄文時代にさかのぼれることを説明しました。同時に酒造りの歴史や、雛祭りの期限まで辿れることに改めて驚きました。稲作の普及に伴って整った結婚の制度ですが、アマテルカミ(天照大神)よりも更に古い時代に確立していたことが分かりました。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

当ブログの参考図書:

  • 池田満氏著書 ホツマ辞典
  • 池田満氏著書 『ホツマツタヱを読み解く』
  • いときょう氏著書 古代史ホツマツタヱの旅
  • 松本善之助氏著書 秘められた日本古代史 ホツマツタヱ

富士山に存在した宮

こんにちは!日本人の心の故郷富士山。そんな富士山に歴史から忘れ去られた宮があったことはご存じでしょうか?

遠い昔に富士王朝が存在したとか、忘れ去られた宮があったなど、諸説存在する富士山周辺の宮の謎について、ホツマツタヱの観点から解説したいと思います。

富士山南麓は古来より重要な拠点だった

富士山南麓の宮は存在したのか?

ホツマツタヱでは、富士山南麓に宮が存在したと書かれています。では一体誰がその宮を建てたのでしょうか?

日本(当初はトコヨクニと呼ばれた)を建国をされた初代クニトコタチにはトホカミヱヒタメの8人の御子がいました。8人の御子はそれぞれ、トノミコトホノミコトと呼ばれました。

初代クニトコタチの後を継いだのがヱノミコトで、クニトコタチの拠点琵琶湖湖岸にて、二代目アマカミになりました。

弟のトノミコト富士山の南麓に派遣され、兄のヱノミコトの後を継いでアマカミの位につきます。このヱノミコトとトノミコトを合わせて、クニサツチと呼ばれました。

トノミコトは桑の葉を常食として長命を保ちました。後に富士山南麓に住まわれたアマテルカミ(天照大神)も富士山に生えていたチヨミ草を常食し、長生きされました。

このチヨミ草は不老不死の薬として秦の始皇帝の耳に入り、秦国より派遣された徐福がこの不老不死の薬を求めて、日本に渡来したという説があります。しかしその頃には噴火の影響で既にチヨミ草は無かったようです。

富士山南麓の宮の名称

富士山南麓にあった宮は時代によって様々な呼び名がありました。トノミコトが住まわれた当時は、トシタミヤと呼ばれました。時代は下り七代アマカミ、イサナギ・イザナギは富士山の行宮でアマテルカミを孕んだため、ハラミノミヤと呼ばれました。

アマテルカミはヒタカミ(東北)にて留学生活を終えた後、ハラミノミヤに新宮を建てて、最初の政を行いました。

さらに時代は下り、アマテルカミの孫のニニキネが宮を再築して、ハラアサマミヤ(ハラミヤ)と呼ばれました。

富士山南麓に住まわれたアマカミ宮の呼び名
トノミコトトシタミヤ
イサナギ・イサナミハラミノミヤ
アマテルカミハラミノミヤ
ニニキネハラアサマミヤ

富士山南麓に憧れを抱いた方

後世、この富士山南麓に強い憧れを抱く方が現れます。それがヤマトタケ(日本武尊)さんです。ヤマトタケさんは時代が下って、景行天皇の二番目の皇子として生まれます。

国を豊かにし、長寿を保ったトノミコト・アマテルカミに深い尊敬の念を抱いたのです。

しかし、ヤマトタケさんは志半ばで早世してしまいます。妻のミヤヅヒメニニキネの長男:ムメヒトの子孫)はヤマトタケさんのミタマを入れた輿と共に、ハラミノミヤへ向かいます。

ヤマトタケさんがソサノヲさんを慕った理由

余談ですが、ヤマトタケさんはソサノヲさんと境遇が似てたため、ご自身をソサノヲさんの生まれ変わりと信じていました。二人ともアマカミ・スヘラギの御子ですし、そして弟の立場です。

自身の近親者がハタレ(朝廷に逆らうもの)になってしまい、縁故の人々を成敗しなくてはならない境遇に陥りました。敵陣の忍び込んで、ハタレの首謀者を打つのです。

ヤマトタケさんは無事に反乱を収めたことを感謝して、ソサノヲさんを祭る社をいくつも建てます。

ヤマトタケさんはソサノヲさんと雰囲気が似ていますが、別人です。そして過去にちゃんと実在した方です。(ヤマトタケさんとお会いしたエピソードも書く予定です。)

景行天皇の皇子として生まれるヤマトタケさん

富士山という名称はいつ頃ついたのか?

古代には富士山は様々な呼び名がありました。ハラミヤマ・オオヒヤマ・ヒノヤマ・カクヤマ・ハラヤマ・オオヤマ・ナカミネなどの名でヲシテ文献に登場します。

次代は下り、七代スヘラギ(アマカミの名称はスヘラギに変わります)フトニノキミ(孝霊天皇)は富士山に行幸します。その際に田子の浦の住人が藤の花をフトニノキミに献上します。

これにより、フジノヤマという新名がつけられて、今の富士山の名前の由来になっています。

富士の宮があった場所はどこ?

ハラミノミヤがあったところは、富士山本宮浅間神社(富士宮市大宮町周辺)のあたりが有力候補とされています。今回は古代のアマカミが愛した場所、そしてアマテルカミが誕生された地、富士山の宮の秘密に迫りました!

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

参考図書:ホツマ辞典(池田満著)

安房神社のフトタマさん

こんにちは!今日は千葉県館山市に鎮座する安房神社について書きたいと思います。安房神社といえば日本三大金運神社として有名ですが、さて、その御祭神:フトタマさんについて綴っていきます。

白い鳥居が印象的な安房神社

日本三大金運神社

安房神社と言えば、日本三大金運神社の一つと言われ、年始には雑誌の特集が組まれている神社です。私はなぜ安房神社を参拝すると金運が上がるのか興味がありました。

突然訪れた参拝の契機

安房神社に行ってみたかったものの、「館山は遠いなぁ」と漠然と思い、なかなか参拝が実現しませんでした。ふとある時夫が「房総半島に旅行に行こう!」と言ったのです。

「安房神社に行きたい」と夫に言っていなかったので、びっくりしました。これは御祭神に呼ばれたのかと思い、早速御祭神について調べることにしました。

安房神社の御祭神とは?

神社の縁起を見ると、御祭神はあめのふとたまのみこと(天太玉命)と あめのひりとめのみこと(天比理刀咩命)とあります。

安房神社の始まりは2,670年前ということですから、紀元前640年頃でしょうか。神武天皇の時代が紀元前660年と言われていますので、誤差はあるとしても、紀元前600年あたりの古社ということになります。

神社の縁起を見ると、神武天皇の勅命により四国・阿波徳島のアメノトミノミコト(天富命)が忌部一族を率いて、房総南端の地を開拓します。

無事に開拓を終えた、アメノトミノミコトさんが祖父のアメノフトタマノミコトさんに感謝してお祀りしたのが由来と書いてあります。

ホツマツタヱのフトタマさん

御祭神のアメノフトタマノミコト(天太玉命)は、ホツマツタヱではフトタマさんという方です。フトタマさんは第七代タカミムスビ:タカギさんの第三子です。

ここで、フトタマさんのご実家、タカミムスビ家について説明します。(池田満氏のホツマ辞典参照)

タカミムスビとは?

日本を建国した初代クニトコタチにはトホカミヱヒタメという8人の御子がいました。それぞれをトノミコト、ホノミコトのように呼ばれていました。

この8人の御子が、住居の立て方や食料にふさわしい樹木を人々に教えるために、日本の各地に派遣されます。

東北地方(ヒタカミ)に派遣されたのが、タノミコトでその子孫がタカミムスビを代々名乗って栄えます。このタカミムスビ家からイサナギ・イサナミが誕生し、夫婦となって第七代アマカミ(古代の天皇)に即位します。

イサナギ、イサナミの長男であるアマテルカミ第八代アマカミとなります。

フトタマさんは第七代タカミムスビ:フリマロさんの子供で、当時皇太子であったホノアカリさん(アマテルカミの孫)に左の臣として仕えます。つまりタカミムスビ家とはアマカミを輩出し、アマカミをお支えする名門の家柄なのです。

フトタマさんの主人ホノアカリさん

フトタマさんの主人であるホノアカリさんとは、アマテルカミとセオリツヒメ:ホノコさんとの間に生まれたオシホミミさんの長子で、弟は天孫降臨で有名なニニキネさんです。

ホノアカリさんはヒタカミ(東北)におられたのですが、ナカクニ(近畿地方)の統治を任され、奈良のイカルガに宮を建てます。しかし、宮遷しの翌日にシラハニ山にカラスが飛ぶのを見て吉兆とし、アスカへの宮遷しを決めます。

しかし、朝廷の重臣であったアマノコヤネさんとクシヒコさん(二代目オオモノヌシ)が反対します。度重なる宮遷しは国の乱れに繋がると考えたのです。ですが、フトタマさんは反対意見を押し切ってアスカへの宮遷しを決定します。

ホノアカリさんの元を去ったアマノコヤネさんとクシヒコさんはニニキネさんに従います。本来であれば民の幸せを考えるのが朝廷なので、なぜフトタマさんは宮遷しに賛成したのでしょうか?疑問が残ります。

フトタマさんの子孫は後々物部氏、忌部氏として、朝廷の祭祀を司る家系として続いていきます。

参拝前の眠気

さて、安房神社へ向かう車の中でフトタマさんのことを考えながら、急に眠りこけてしまいました。(美鈴はこれを一之宮現象と呼んでいます)

目が覚めると、白い大きな鳥居が目の前に現れ、安房神社に到着しました。

本殿のフトタマさん

早速本殿に向かいました。日本三大金運神社とはいっても、キラキラした派手な神社ではありません。目の前に現れた本殿を見て、『うわっ、伊勢神宮だ』と思いました。

本殿は伊勢神宮と同じ神明造

伊勢神宮そのものという雰囲気なのです。本殿を見ていると『国家』、『朝廷』、『公=(Public)』という言葉が聞こえてきます。

実は伊勢神宮は訪れたことがなく、写真でしか見たことがないのですが、伊勢神宮の気を帯びた神社なのです。本殿にて祝詞を奏上し、自己紹介をすると、フトタマさんが歓迎して下さっているのが伝わります。

フトタマさんは『忠・誠・心』の一言に尽きます。朝廷を重んじ、主君に忠実な方なのです。主人のホノアカリさんに異を唱えなかったのは、フトタマさんの忠誠心ゆえでしょう。

本来ならば、国が乱れる原因となる宮遷しはしない方が賢明です。ただ、ホノアカリさんの立場からすれば自分の意見に忠実に従ってくれるフトタマさんの存在は心強かったでしょう。

ホノアカリさんのご出身は東北(ヒタカミ)ですし、フトタマさんのご実家もヒタカミのタカミムスビ家です。ヒタカミから遠い近畿の地でフトタマさんはホノアカリさんを支えていたのです。

フトタマさんにお礼を伝えて安房神社を後にしました。

安房神社の御利益

安房神社の御利益は交通安全、厄除け、開運、家内安全、商売繁盛です。フトタマさん御自身がアマカミ(古代の天皇)の重臣ですので、やはりお仕事関係で御利益がありそうです。

参拝後に起きた変化

安房神社の参拝後に強烈な毒出しが起こりました。参拝の翌日は倦怠感が続きましたが、房総半島で美味しいお魚を食べたせいか、参拝後は体がとても元気になりました。

安房神社の金運アップについて美鈴の見解

さて、金運アップについてですが、皆さんは神社を参拝する際に、御祈祷代、お賽銭、御朱印代、授与品、お守りの購入などで、ある程度お金を支払うのではないでしょうか?

神社で支払うお金は世のため、人のために役立つお金になりますので、回りまわって自分に返ってくることがあります。

金銭で戻る場合もあるでしょうし、ポイントや金券、仕事が見つかる、人から物をもらう、健康になるなど別の形の場合もあります。安房神社を参拝した多くの方が、その恩恵にあずかったため、金運神社として評判になったのではないでしょうか?

国を重んじ、忠誠心の篤いフトタマさんに会える安房神社に、機会がありましたら是非ご参拝ください!

最後までお読みいただき、ありがとうございました!

参考図書:ホツマ辞典:池田満著

ホノコさん(瀬織津姫)の癒しが感じられる:小野神社(多摩市)

こんにちは!今回は東京都は多摩市に鎮座する武蔵国一之宮小野神社について書きたいと思います。

朱塗りの社が女性らしい

最寄り駅は京王線の聖蹟桜ヶ丘ですが、実は父がこの付近でお店を経営していました。幼少期から馴染み深い土地ですが、小野神社の存在を知ったのはつい最近のことでした。

ホノコさん(瀬織津姫の名で知られる)を祭る神社がないか探していたところ、こちらの神社を見つけました。

小野神社御祭神

ホームページを見ると、主祭神は天ノ下春命瀬織津姫命と書いてあります。天ノ下春命とはホツマツタヱで言うところの、オモイカネさん(アマテルカミの左の臣)ワカヒメさん(アマテルカミの姉)との間に生まれたシタハルさんのことです。

では、瀬織津姫命とは、ホツマツタヱではどのように書かれているのでしょうか?

瀬織津姫命とは

瀬織津姫命とはホツマツタヱでは、アマテルカミ(天照大神)正姤です。セオリツヒメという名とムカツヒメ(アマテルカミと一対一で向かい合う方の意)の名があります。

あめのしずくトップ画像はホノコさんなのです

その名の通り、アマテルカミが最も愛したお妃で、アマカミ(古代の天皇の呼び名)の右腕となります。駿河一帯をおさめていた名家:オオヤマスミ家のご出身で、生まれは静岡県の三島大社あたりとされています。

ソサノヲさんの暴挙がきっかけで、ホノコさんの妹のハナコさんが亡くなってしまいます。ソサノヲさんは死刑を言い渡されますが、ホノコさんの除名嘆願によりソサノヲさんは死刑を間逃れます。

きっと、ホノコさんは思慮深く、慈悲深いお方だったのでしょう。ホノコさんはアマテルカミとの間に皇太子オシホミミを授かります。

※当ブログでは、基本的に親しみを込めて人物は「~さん」付けしております。ただし、アマカミなど高貴な方や眷属に関しては、敬意を込め敬称略で記載する場合があります。

ホノコさんに呼ばれる?

実は前々から小野神社には参拝に行きたかったのですが、なかなか予定が合わず、実現しませんでした。ですが、こちらから「お会いしたい!」という気持ちはちゃんと御祭神に伝わります。

余談ですが、行きたい神社になかなか行けなくても、気にする必要はありません。それは、御祭神側と皆さんのご都合があるからです。タイミングが合った時に参拝のチャンスが訪れます。

小野神社のこともすっかり忘れていたある日、ぱっと「小野神社!」と閃きがきました。(私はだいたい閃きかインスピレーションで「呼ばれた!」と察知します。)ようやく参拝できるチャンスが訪れました。

神社に呼ばれる理由とは?

ここで、神社に呼ばれるとは?そして呼ばれる理由とは何か考えてみたいと思います。

皆さんが頻繁にある神社を見聞きする突然その神社の名前が閃く時は、その神社から呼ばれている可能性があります。

神社に呼ばれる理由は、大まかに分けて以下の3つの理由が考えられます。

  • 御祭神が皆さんに良くないものがついているので、祓ってくだろうとしている。
  • 御祭神が皆さんの願望成就の手助けしたいと思っておられる。
  • 御祭神が皆さんと御縁を結びたいと思っておられる。

ホノコさんが呼んでくださったということは、こちらの神社でホノコさんと繋がれることを意味します。

早速、小野神社へ向かったのですが。。。

ホノコさんはどちらに?

朱塗りの立派な本殿

早速、本殿の前で祝詞を奏上し、自己紹介をしましたが、「。。。。」反応がありません。

なんというか、不在という感じなのです。

呼んでくださったからには、おられると思ったのですが、私は少しがっかりして帰宅しました。

参拝後に起こった異変

小野神社は武蔵国一之宮神社です。私は一之宮神社に参拝するとかなりの確率で参拝前後に睡魔に襲われ、強力な毒出し(悪いもの、悪い感情が排出されること)が起こります。

小野神社に参拝した当日は何ともありませんでしたが、翌日から異変が起こりました。

突然、野菜をもりもり食べ始める

最近、出先で食事をすることが多く、食事が偏っていたのですが、参拝後に無性に野菜が食べたくなりました。とにかく野菜やサラダを沢山食べています。

お陰で仕事も絶好調で、夏バテはどこへ行ったの?というくらいの爽快ぶりです。

参拝二日目の謎の睡魔

参拝の二日目に謎の睡魔に襲われます。単なる睡眠不足かと思うかもしれませんが、明らかに神社参拝後の眠気が今になってやってきたという感じでした。

ホノコさんが私についている悪い習慣や悪いものを祓ってくださったのでしょう。本当にありがたいです。

残念ながら、本殿でご本人の気配は感じられませんでしたが、ホノコさんの癒しのパワーを参拝後に実感できました。

そんな素敵な小野神社、是非機会がありましたら、参拝してみてくださいね!

最後までお読みいただき、ありがとうございました!

諏訪大社とタケミナカタさん

こんにちは、今回は随分前に参拝した長野県は諏訪市に鎮座する諏訪大社と、御祭神のタケミナカタさんについて書きたいと思います。

諏訪大社は前宮、本宮、春宮、秋宮の四社からなっています。諏訪大社のホームページを見ると、御祭神は建御名方神、八坂刀売神、八重事代主神と書かれています。

タケミナカタさんについては後ほど詳しく述べたいと思います。

のどかな風景が広がる長野県

諏訪大社参拝のきっかけ

参拝当時はホツマツタヱは知らず、ネットで諏訪大社がイスラエルの失われた十支族とかかわりがあるのでは?という日ユ同祖論をYouTubeやブログを読んで興味を持ちました。

日ユ同祖論とは、世界に散らばったイスラエルの失われた10支族の1支族(第9族エフライム族、第5族ガド族、または第7族イッサカル族)の数人が日本に移住したという説があります。(引用元:Wikipedia)

上社前宮にある「十間廊」という建築物が、イスラエルの「聖所」と呼ばれる幕屋に由来する説があります。

御祭神のタケミナカタさんと歓迎を受け、また本宮でお会いした意外な御祭神についても触れていきます。

諏訪大社四社巡り

まずは前宮から参拝しました。

前宮の鳥居

前宮はとても暖かい優しい気で満ちていました。御祭神はタケミナカタさんと奥様のヤサカトメノミコトさんと書かれています。

暖かく出迎えてくださっている様子が伝わりました。前宮の奥がお二方の墳墓となっており、古来より禁足地になっています。

冒頭で述べた、十間廊も前宮で見学できます。

上社前宮の十間廊

本宮の御祭神

次に向かったのは本宮です。ものすごく歴史の古い神社という印象を受けました。

先に拝殿に参拝した夫が「雄々しくて壮大な神様だったよ」と言っていたので、ワクワクしながら拝殿に向かいました。

早速ご挨拶をしたところ、大きくて黒い蛇のお姿が見えました。

こんな感じに見えました(背景は架空の神社にしています)

「あっあれ?」と私はびっくりしました。拝殿におられたので恐らく御祭神なのでしょう。

なんで蛇の神様なんだろう?」と不思議に思いましたが、帰宅後にネットで調べたところミシャグジ様という神様が諏訪の地で信仰されていたことが分かりました。

ミシャグジ:中部地方を中心に関東・近畿地方の一部に広がる民間信仰(ミシャグジさま信仰)で祀られる神(精霊)のこと。(引用元:Wikipedia)

本宮にミシャグチ様がおられたということは、縄文時代に起源を持つ自然崇拝が信仰されていたことを物語っています。つまり、諏訪の地をおさめていたタケミナカタさんが、ミシャグチ様の信仰を認めておられたのでしょう。

諏訪大社・下社春宮

次は下社の春宮を参拝しました。こちらは本宮と雰囲気が少し変わります。結婚式も執り行われており、幸せオーラで満ちていました。

結婚式も行われていました。

こちらの御祭神もタケミナカタさんとヤサカトメノミコトさん、ヤエコトシロヌシさんとなっています。

ヤエコトシロヌシさんとは?

ネットで見ると八重事代主とは事代主の別名とあります。つまりホツマツタヱで言うところの2代目モノヌシのクシヒコさんを指します。

ちなみにコトシロヌシとは役職名で副大臣に相当します。クシヒコさんは若い頃はコトシロヌシで、後に父のオホナムチさんの後を継いで、モノヌシになります。

つまり、御祭神はタケミナカタさん、ヤサカトメノミコトさん、クシヒコさんということになります。

ホツマツタヱのヤエコトシロヌシさん

ホツマツタヱでは、ヤエコトシロヌシさんはクシヒコさんの息子のミホヒコさん(三代目モノヌシ)の次男のツミハさんを指します。

では、諏訪大社の御祭神のヤエコトシロヌシとは、クシヒコさんとツミハさんどっちなの?という話になりますが、(私は)クシヒコさんだと思います。

理由はクシヒコさんの方がよりタケミナカタさんと近い間柄だからです。(クシヒコさんはタケミナカタさんの腹違いの兄になります。)

諏訪大社・下社秋宮

下社秋宮には子安社の陰陽石というものがあり、当時妊活中だった私は子授けの御利益があると聞いて楽しみにしていました。ところが、どこを探しても陰陽石が見当たりません。

「あれ?あれ?」と夫と探し回りますが見つかりません。

子安社の下の柵をかがんで覗き込むと、ありました!しかも男性と女性の大切なところの形をしています。(※そのため写真は掲載できません。)

ホツマツタヱではサルタヒコさんが男女の陰部をかたどったものを人々が集う神社に飾ったと書いてあります。男女の陰部から生命が誕生するため、神様として尊く崇めていたのでしょう。

陰陽石の男性側を撫でると男の子が、女性側を撫でると女の子が授かるとのことで、男性側を撫でたのですが、ちゃんと男の子が授かっています。

ホツマツタヱのタケミナカタさん

ホツマツタヱでは、タケミナカタさんはどのように書かれているのでしょうか?

その前にホツマツタヱは景行天皇の命令でクシミカタマさんとオオタタネコさんとが編纂した歴史書で、基本的には古代のアマカミ(天皇)を中心に書かれています。

ちなみに、クシミカタマさんはソサノヲさんの六代目、オオタタネコさんは十代目の子孫にあたります。

そのため、タケミナカタさんに関する記述は限られていますがご紹介します。

その前に出雲の国譲りのお話をしておきます。

出雲の国譲りとは

出雲をおさめていたオホナムチさんは持ち前の人格と政治力を生かして、出雲の国を豊かにします。そして、自分たちの社を朝廷の宮より立派だと言って、驕り高ぶります。

それを朝廷側が悟り、一国の豊かさは反乱を招く危険性もあり、出雲に次々と使者をおくりますが、オホナムチさんは使者を丸め込んでしまいます。

朝廷側の使者であったアメワカヒコさんは、すっかりオホナムチさんに同賛して、朝廷側の使者に弓を放ちます。そこで、朝廷側が平定軍を差し向けます。

慌てたオホナムチさんはミホの地に隠棲していた息子のクシヒコさんに助言を求めます。クシヒコさんは慢心した父を諌めるために、役職を退いて、隠居生活をしていたのです。

クシヒコさんは「民を幸せにする朝廷は尊いので、降伏するしかありません。」と父を説き伏せます。

クシヒコさんのお陰で戦は間逃れ、オホナムチさんは出雲を離れて、ツカル(津軽地方)の地へ赴きます。これが出雲の国譲りです。
ここでクシヒコさんの人格の素晴らしさが光ります。朝廷をないがしろにはしないのです。それどころか役職を退いて潔く身を引きます。地位や名誉に執着している人であればなかなか出来ないことです。

また、息子に助言を求めて、息子に従うオホナムチさんも立派です。慢心したとはいえ、誰でも栄光を手にすれば、無意識のうちに驕り高ぶるものではないでしょうか。

息子が説き伏せても、決して親の権威を振りかざしていません。オホナムチさんも謙虚で優しい人ということが伝わります。

最後まで抵抗したタケミナカタさん

朝廷から送られた平定軍に最後まで抵抗したのがオホナムチさんの息子のタケミナカタさんと言われています。

タケミナカタさんはクシヒコさんの母であるタケコさん(アマテルカミの娘)から生まれたのではなく、オホナムチさんの別の妻から生まれた方です。

オホナムチさんは傲慢になったとはいえ、謀叛を起こしたわけではないので、タケミナカタさんも納得いかなかったのではないでしょうか。

ただ、朝廷側としては一国が豊かになると反乱の危険性もあり、一国の主が朝廷をないがしろにする言動と態度は見過ごせなかったのでしょう。

タケミナカタさんは諏訪の地で平定軍のタケミカヅチさんに降伏したとホツマツタエに書かれています。

諏訪の地をおさめたタケミナカタさん

タケミナカタさんは国譲り後は信濃の国をおさめていました。

朝廷が獣肉食禁忌令を出した際にも「信濃の国は寒いので獣肉食を採ることをご承知ください。」と朝廷に伝えているため、朝廷に従っていたことが分かります。

信濃の国を開拓し、地元に方にも慕われていたと思います。全国に25,000社もある諏訪大社の総本山ですから、多くの方々の崇敬を集めていたのでしょう。

そんな素敵なタケミナカタさんに会える諏訪大社に是非機会がありましたら参拝してみてください。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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