天の岩戸の真相~ウスメさんの場合~

こんにちは!今日はあの有名な天岩戸の真相をウスメさんに焦点を当てて取り上げたいと思います。

天の岩戸の話

アマテルカミ(天照大神)弟ソサノオさんソサ(紀伊の古名)で生まれたのでソサノヲと呼ばれた】は父君のイサナギ様からネノクニ(現:北陸)を治めるように言われます。

しかし、アメナルミチ(恵み和すの精神)を真に理解していないソサノヲさんにクニカミの位を授けることを躊躇します。

それでも、ソサノヲさんネノクニとサホコ(出雲)に行くことになるのですが、ネノクニでも居場所を確保できず、嫁取りの話も破談になってしまいます。

兄のアマテルカミに恨みを抱いたソサノヲさんは田畑を荒らし、神衣を織る斎服殿を汚すという暴挙に出ました。

すっかり心が荒んでしまったソサノヲさん

斎服殿におられたハナコヒメ(アマテルカミの妃、ムカツヒメ(ホノコヒメ)の妹)の体に(織機を縦糸に横糸を通す道具)が刺さり、亡くなられてしまいます。

アマテルカミがソサノヲさんに詠んだウタ

このことを耳にしたアマテルカミソサノヲさんを呼び出し、以下のウタを読んでソサノヲさんを諭そうとします。

アマガシタ ヤハシテメグル ツキヒコソ ハレテアカルキ タミノタラナリ
天下を治めることは、両親が子にするように、民をいつくしみ和してこそ全うされるのであり、日月のように明るくあって、何の屈託もあってはならない

このウタはとても重要なウタで、クニを治めるものはアメノミチ(恵み和す精神)を忘れてはならないという重要な意味合いがあります。

現状、ヲシテ文字(古代文字)で書かれた文献は、「ホツマツタヱ」、「ミカサフミ」、「フトマニ」の三書ですが、この文献が残されたのは、

歴史書を残すだけでなく、このアメノミチを後孫に伝える目的で書かれたと言っても過言ではないのかなと思います。

そのため、誰よりもアメノミチを全うしておられたアマテルカミの内容がふんだんに盛り込まれています。

話を元に戻して、ソサノヲさんは素直に聞くどころか、なおも怒り続けたため、アマテルカミは岩戸にお隠れになりました。

岩室:天然の岩屋を入口で塞いだもの(恐らく)

太陽のようなアマテルカミ岩戸にお入りになられたので、オモイカネさん(アマテルカミの姉ワカヒメの夫)ツワモノヌシ(アマノコヤネさんの祖父)等重臣達が集まり、

ツワモノヌシさんが祈りを捧げます。(ツワモノヌシさんトヨケカミの子で、とても霊力の強い方だったそうです。)

ツワモノヌシさんの名前が出たので、参考までにアマノコヤネさんの系図を載せておきます。アマノコヤネさん上古代の重臣で、後の藤原氏の先祖にあたる方です。

ウスメさん(アメノウズメ)登場

ツワモノヌシさんが一生懸命祈った後、今度はウスメさんが(一般的にアメノウズメとして知られる)シダ科のヒカゲカズラをたすきにして、茅草を巻いた鉾を持ち、

ヲケラ草を庭に焚き笹を斎花として、神倉の神戸の前に篝火を燃やしたとあります。

ウスメさんは裸で踊ったというのが通説ですが、ホツマツタヱでは、ウスメさんヒカゲカズラをたすきにしたとあります。ウスメさんサルタヒコさんでもありますし、

モ(スカートみたいな衣服:高貴な身分の人が着用した)を履いていたので、恐らく身分の高い方です。

ニニキネ様にも仕えていたので、能力の高い方ではないかと思うのです。

美鈴がイメージするウスメさん

上古代は女性が蔑視されていなかったので、高貴な方が裸で踊ったとは考えられないと思います。

オモイカネさんをはじめ、重臣たちは「ナガサキ」の歌を歌って踊ります。そして、アマテルカミを香しい夫に見立てて、

「お姿が見えなくても、余香が素晴らしいので酔いしれてしまう」というウタを詠みます。

外の賑やかな様子に不審に思ったアマテルカミが戸を開けたすきに、オモイカネさんの息子のタチカラヲさんがアマテルカミの手を引いて、

ツワモノヌシさんが「二度と岩戸に入られませんように」と告げた、これが天の岩戸の真相です。

ウスメさんとサルタヒコさんの出会い

ウスメさんが胸を開ける描写は確かにホツマツタヱにあります。それは天の岩戸のくだりではなく、

ニニキネ様がサルタヒコさんに会うシーンです。

サルタヒコさんは初代クニトコタチの本流であるエノミコトのお血筋で由緒正しい方です。

安曇川まで開拓を進めたニニキネ様は琵琶湖岸を南下しますが、ニニキネ様は皇太弟という立場だったので、琵琶湖周辺に縁の由緒正しいサルタヒコさん

受け入れてもらえるか懸念していました。

お供していたタチカラヲさんも物怖じしている様子なので、女性のウスメさんを呼んで、先触れを頼みます。

サルタヒコさんは川辺に寝そべっていたのですが、ウスメさんサルタヒコさんの警戒を解くために、

衣服の胸元を開けて、モ(スカートみたいな衣服)を腰まで下げて、サルタヒコさんに近づきます。

ウスメさんとサルタヒコさんは後に夫婦となる

ウスメさんサルタヒコさんにアマテルカミのお許しの元、ニニキネ様が全国を巡行されていることを告げます。

サルタヒコさんは、「ニニキネ様のご意思に同賛して、おもてなししようと思っており、ニニキネ様の事業に喜んで協力します。」と伝えたのでした。

今日は天岩戸の真相~ウスメさんの場合について~紹介してみました。

裸で踊ったのでは、ウスメさんの威信に関わりますし、ウスメさんは賢くて、機転の利く優秀な女性だったの思うのです。

なので、あえて取り上げてみました。最後までお読みいただきありがとうございました!

参考図書:池田満氏著 ホツマ辞典

     松本善之助氏著 秘められた日本古代史 ホツマツタヘ

上古代の税の意味

こんにちは!今日は上古代のについて考えてみたいと思います。

実は初代クニトコタチの時代から、税の原型となるものが存在していたことが、ホツマツタヱを読むと分かります。

では、どのような経緯で「税」に変わっていったのか見ていきたいと思います。

初代アマカミ(昔の天皇のこと)のクニトコタチ様アメ(絶対神)にお供えしたのは「木の実」でした。

二代目アマカミクニサツチ様の子供にウケモチという方がおられました。このウケモチという方が稲栽培の先駆者であり、

三代アマカミのトヨクンヌ様に稲作の方法と種を伝え、自国の京都南部で稲作栽培をいち早く行っていました。

そのウケモチさんが植えた稲が、八月一日に収穫祭を挙行すべきほどに実ったので、当時のアマカミであった三代トヨクンヌ様

カシキ(赤白黄)ユフニキテ(木の繊維で作った幣)アメナカフシを祭り、精米して粥と重湯をお供えしたと書かれています。(ホツマツタヱ 15-22)

ここで、クニトコタチ様がお供えした「木の実」「稲穂」としてアメナカフシに捧げられました。

ちなみに、ウケモチというお名前には、多くの食料を得るという意味があります。ウケノミタマともいいます。

京都伏見稲荷社の祖神は?

余談ですが、このウケモチさん八代目の子孫カダノミコトという方で、八代アマカミアマテルカミの治世で、農業大臣の役職についていました。

実は京都府伏見に鎮座する伏見稲荷大社は、このウケモチさん祖神として祀るカタノカミ一族なのです。

カタノカミという方はカダノミコトの父親なのですが、誤認によって殺害されてしまいます。

父の喪が明ける際に、カタノカミは国家のため、国民のために、農業技術の指導を決意しました。

祖先のウケモチさんから代々伝えられてきた農業技術を惜しみなく公開し、アマテルカミより「ヨヨノタミ マモリツカサ」の称号が贈られます。

(ヲヲンカミは常に最高の言葉で人を褒める方なのです)

伏見稲荷大社

話を元に戻して、アメナカフシに捧げられた稲穂は、やがて民から納められる税(ミヅホ)に変わっていきました。

ミクサノカンタカラ(三種の神器)一つであるトノヲシテ(恵民立国の基本理念)は「天地自然の恵みをアマカミが代表して受け、人々に恵み分かつ」ことが基本構造でした。

そして、人々が感謝の心を形に表してアマカミに献げたものが古代における税の原型でした。

そして、民から献けられた物を活用して新規事業を興し、人々の生活を更に豊かにすることで人々とアマカミの間で信頼関係が成立していました。

池田満氏が仰られていますが、税の根底には「感謝」が根底に備わっていたと考えられます。

しかし、六代アマカミオモタル・カシコネ様の治世に、気候の変化によって、農作物の減収が起こりました。そのため、人々の間で朝廷に対する疑念が増え、税が減少するという事態になりました。

税の減収により、政は貧弱となり、治安維持の出費が増える悪循環に陥ったのです。

そのため、目先の利益に走って他者から搾取する悪人を処罰するため、トノヲシテの他にサカホコ(古代の剣みたいなもの)が追加されました。

あくまでイメージです

ヲヲヤケを立てて、社会の平安を維持するためには、税の徴収も強制的な側面も追加しなければならなくなったのですが、

人々が税を厭う気持ちになったのは、実は裏道を公然と行く悪だくみが原因であると池田氏は仰っています。

国家成立当時の税の意味合いはそもそも、アマカミが天の恵みとして頂いた、穀物、作物をお供えしていたものが原型であり、

感謝の意味合いがあったことがホツマツタヱを読むと分かります。

美鈴の所感

時代の変遷により、ある程度は強制的に税を徴収する必要はあったものの、そもそも租税には感謝の意味合いが込められていたことは大変興味深い内容であると思います。

やはり子供のうちから「なぜ税を納めるのか」、「納めた税はどのように使われるのは」子供のうちからしっかり教育することがとても大切であるかなと思いました。

それから稲荷社ですが、毎回稲荷社にお参りするとこのウケモチさんが温かく迎えてくれます。(とても優しい方なのです)

ウケモチさんの功績を考えると全国に3万社も稲荷社があるのは頷けます。

ただ、全国の灌漑事業に功績を収めたニニキネ様をお祀りする社も同じくらいあってもおかしくはないのかなと思います。

今日は上古代の税の意味についてお話ししました。最後までお読みいただきありがとうございました!

ニニキネ様のこと

こんにちは!今日はアマテルカミのお孫さんにあたるニニキネ様(瓊瓊杵尊)について書きたいと思います。

一般的にはニニギノミコトとして知られる方です。

ニニキネ様

ニニキネ様アマテルカミ後継オシホミミ様タクハタチチヒメとの間に生まれた方で、イミナキヨヒトといいました。ホノアカリ様(アスカヲキミ)という兄がおられました。

ちなみに奥様子安神で有名なコノハナサクヤヒメ(アシツヒメ)です。

アシツヒメ

アマテルカミは孫たちの中でもひときわ優れていたニニキネ様「ミマコ」と呼んで可愛がりました。

ニニキネ様の功績は目覚ましく、日本各地で灌漑水田の普及にご尽力されました。

ニニキネ様の治世では長男のホノアカリ様との二朝廷並立でしたが、この功績によりニニキネ様の系統が本流になります。

ニニキネ様天孫降臨で有名な方ですが、高千穂(霧島山)カミアガリ(洞穴に入って亡くなること)をされたため、関東に縁がないと思われるかもしれませんが、実はニニキネ様が初めに治めたクニは茨城県筑波山付近で、ニハリノミヤに居を構えました。

ニニキネ様の眠る霧島山

ニニキネ様がアマテルカミの伊勢・志摩で灌漑事業の実証を成功させると、アマノコヤネさん、クシヒコさん、タチカラヲさんを引き連れて、全国巡幸に出かけて灌漑事業を指導されます。ニニキネ様が巡幸された地域は近畿・山陰道・北陸道・山陽道・九州・関東一円に及びました。

富士の裾野に三万の水田の開発に成功を収めたニニキネ様はサカオリノミヤ(旧:ハラミノミヤ)を建て直し、新しくハラアサマミヤと名付けて、建築にコカネをはめ込み、ウルシで彩色を施したといいます。

あくまでイメージです

さぞかし美しかったと思うのですが、ニニキネ様はキヌではなく、ユフ(草の繊維からできた布)を履かれたそうです。

ニニキネ様が開発された土地

ニニキネ様が開発された主な土地を以下に纏めてみました。(池田満氏著「ホツマツタヱを読み解く」参照

①ニシノミヤ(兵庫県西宮市付近)

②クマノ・ヨロギノ(琵琶湖湖西)

③富士の裾野

④ダケノイワクラ(高島町岳山)

⑤ヨロイザキ(未詳)

⑥カガミ(蒲生郡 鏡山)

⑦ミカミヤマ(中主町 三上山)

④~⑦はサルタヒコさんを中心に行われたため、サルタヒコさんにミヲノカミの褒め名が下賜されました。

ニニキネ様の特筆すべき功績

ニニキネ様は雷雨が多かった京都盆地を開発に着手します。の多かった京都盆地の害を防ぎ、水を役立てるためにカグツチ神ミヅハメの神に分けて祭りました。アタコに、キフネに祭ったことから、ワケイカツチと呼ばれるようになりました。

このカグツチ神をお祭りする神社が亀岡市千歳町にある愛宕神社です。

このことはアマテルカミのミコトノリにも残されているのでご紹介します。

これまで京都地方は雷雨ばかり激しくて天候が安定しなかった。その雷雨を皇孫ニニキネが、火と水との二つに分けるのに成功したので、日照と降雨とがほどよくなり、稲作も上々である。
この活躍はトコタチ(恐らくクニトコタチ)の神が新たに出現したほどのすばらしさである。だから、これに対し、「イカツチを分けた天君」という呼び名を贈りたい
(松本善之助氏 秘められた日本古代史(続)ホツマツタヱ)

アマテルカミは良く功績を立てた方に讃え名や賞賛を惜しみなく与える方なのですが、きっと最高の誉め言葉なのでしょう。最高権力者が功績を立てた人に最上の誉め言葉を与えるってなかなか出来ないことだと思います。

これはやはりアマテルカミが立場が目下の人たちにもへりくだっておられたことが伺えます。

ニニキネ様の孫にあたるカモヒト:ウガヤフキアハセズ様からカンヤマトイワハレヒコ(神武天皇)から三種の神器が伝授された際に、カガミカアヒ(現:下鴨神社)ヤヘガキワケツチ宮(上賀茂神社)に預けおいたと書かれています。

両社はいずれもニニキネ様縁の神社です。

上賀茂神社

今日はニニキネ様について、ご紹介しました。やはり御祭神の背景を知ってと知らないでは、御祭神に対する感謝の気持ちも変わってくると思いますので、参考にして頂けましたら幸いです。最後までお読みいただきありがとうございました!

参考図書:「ホツマツタヱを読み解く」/ホツマ辞典 池田満氏著書 

ミクサタカラ(三種神器)の鏡の意味

こんにちは!今日はホツマツタヱの記載されているミクサタカラ(三種神器)のカガミの意味について考えてみたいと思います。ミクサタカラ(三種の神器)とは、建国の理念「トノヲシエ」「サカホコ」、「カガミ」のことです。

それぞれ、どのような意味があるのか池田満氏の著書を参考にして、見ていきたいと思います。

ミクサタカラのカガミ(イメージです)

建国の理念トノヲシテ

縄文前期に建国された我が国はトコヨクニと呼ばれていました。池田満氏の著書によると、トコヨクニの理念は

「人々を教導し、恵み和す」ことを国家理念とする「トノヲシテ」を主軸とする「文化立国」「恵民立国」でした。

建国当時のリーダーはクニトコタチに革新をもたらし、クリを中心とする実栽培農業竪穴式住居の考案を行い、

人々の生活を豊かにしました。

この期間を考古学的に見ると、6000年前~3000年頃までの年代になります。

初代クニトコタチから第三代アマカミのトヨクンヌ様の治世ではこの「トノヲシエ」のみで国が平和に治められていました。

しかし、時代の変遷とともに「トノヲシエ」だけでは、国家が纏まらなくなっていきます。

カンタカラにサカホコを追加

しかし、クリドングリなどの木の実は収穫しても3カ月~半年程度の保存期間であり、気候に左右されれば、収穫ゼロのリスクもありました。

これに対し、水田稲作で収穫できる稲籾は一年以上保存可能な上に、気候の影響で不作になるリスクはあるものの、収穫ゼロのリスクを回避できたため、人々の生活は更に豊かになりました。

この豊かさにより、人々の間で貧富の差が生まれ、「妬み」「恨み」により「略奪」などの悪事を働く罪人が出てくるようになりました。

そこで、第六代アマカミのオモタル・カシコネ様の時代に「サカホコ」(昔の剣のようなもの)で罪人を処罰する必要性が出てきたのです。

サカホコ(あくまでイメージです)

作物の減収が起こると、貧富の差が生じるため、どうしても「持たざる者」「持てる者」から略奪する事態が起こります。現代における詐欺も、

豊かさが生んでしまった弊害とも言えます。

そのため、六代アマカミのオモタル・カシコネ様の時代に、カンタカラ(神器)の「トノヲシテ」に「サカホコ」が追加されます。この時代はミクサタカラ(三種神器)ではなく、二種のカンタカラでした。

神社の鳥居の本当の意味

この二種のカンタカラを受け継いだが第七代アマカミのイサナギ・イサナミ様です。この二種のカンタカラのシンボリックが神社の入口に建てられている鳥居なのです。

鳥居の二本の柱は「トノヲシテ」と「サカホコ」を表し、横の橋渡しは「国民に潤いを与える」という意味が込められています。

つまり、鳥居が最初に建てられたのはイサナギ・イサナミ様の時代となります。

ミクサタカラにカガミを追加

この二種のカンタカラカガミを追加したのが、第八代アマカミアマテルカミです。

神社に祀られている鏡を見た時、皆さんはどんな意味があると思われましたか?「己を顧みる?」「自らを内省する?」大体あっています。

では、ホツマツタヱを参考にして、もう少し詳しくアマテルカミの意図を探ってみたいと思います。

ハタレの乱に苦悩するアマテルカミ

「サカホコ」によって、罪人を処罰したとしても、結局は「対処法」みたいなもので、アマテルカミ「騒乱を未然に防ぐことが、真の国民の幸せである」とお考えになりました。(どこまでも賢い方です)

現代にも通じるアマテルカミの教え

物質的豊かさは人々の心の奥底に妬みや恨みを植え付けました。アマテルカミの治世は水田稲作による豊かさを享受する過度期にあたり、ハタレの乱という大きな騒乱が起きた時代でもありました。

この騒乱に加わった人数は70万人9千人(累積?)に及び、アマテルカミはとてつもない数の反乱軍に対処しなければなりませんでした。どのような反乱軍が居たのか池田満氏が詳しく書いてくださっているので紹介します。

ハタレの種類手口
シムミチ恫喝
イソラミチ幻惑
ヰツナミチ武力
キクミチ幻惑
ハルナハハミチ精鋭による武力
アメヱノミチ呪術

幻惑呪術が気になるところではありますが、ではアマテルカミは70万人にも及ぶハタレにどう対処したのでしょうか?

池田満氏の言葉をお借りして紹介します。(一部省略)

ハタレたちは仲間の者たちの欲望を集め合わせて群れ、一般の国民の財産や生命を掠め取って宴を繰り返している。しかし、ハタレたちの心の中をよく見通してみると、自らの心の内から沸き起こる悩みに苛まれていることが、一日に三度も起きている。しかるに、ハタレがいくら天地を揺るがすほどの多人数ではあっても恐れるに足るような者たちではない。

アマテルカミが見事にハタレの心の内を読まれたために、ハタレの乱は無事に平定することが出来ました。

そして、ハタレの騒乱後に、カンタカラカガミが加えられたのでした。(ヲヲンカミはただ優しいだけではなく、指導力統率力にも優れておられた)

当初、ハタレは少人数であったと思われますが、一般人がハタレに惑われやすかったため、70万人にも膨れ上がったと考えられます。自分自身がしっかりすれば、恫喝にひるむこともないし、インチキにたぶらかされることもありません。

ホツマツタヱの一説では以下のように語られます。

アマテルカミは洞察力に優れ、人の心を読むことができる方だったと思うのです。(そのため人選ミスもなかった)それはアマテルカミのお人柄からも伺い知ることができます。

美鈴の所感

この記事を書いてみて思うことは、実は私自身も他人と比較する気持ちやうらやむ気持ちを持っていました。

ですが、神社に通うたびに毎回「バサー」っと祓っていただいているお陰で、今ではそんな気持ちは無くなりました。

本当に不思議なのですが、今ではありのままの自分で良いと思えるし、ありのままの自分が大好きになりました。

私は母からされた仕打ちが心のしこりとなっていました。

しかし、神社に通ううちに、本当に不思議なのですが、その恨みをすっかり忘れてしまったのです。

今では親に対する感謝しかありません。

これも、ひとえにありのままの美鈴を愛して下さっている御祭神のお陰であると思います。

アマテルカミは御父上イサナギ様尊父と語られ、ご両親のイサナギ・イサナミ様に対しては多大な尊敬と信頼を寄せていることが分かります。これは本当に美しいことだと思うのです。

もちろん、親が嫌い、祖父母を尊敬できない方もおられるかもしれません。そんな方は遠い日本人のご先祖様である御祭神に想いを馳せて頂きたいなと思います。私はこのブログで尊敬に値する御祭神を何人も紹介してきました。

実は運勢というものはヨコではなく、タテから来るものだからです。

アマテルカミは上古代の方ですが、現代にも通じる内容であるし、私たちに大切なことを教えてくださっているので、取り上げてみました。

最後までお読みいただきありがとうございました!

アマテルカミの食育

こんにちは!今日はアマテルカミの食養についてお話ししたいと思います。伊勢神宮参拝後、アマテルカミから幾つかインスピレーションを頂いたのですが、主に食に関する内容でした。ここでその一部をご紹介したいと思います。

アマテルカミの食養に関する内容はヲシテ文献にも残されています。池田満氏の著書を参考にして、読み解いていきたいと思います。

池田氏の著書から抜粋します。(一部文章を変えてあります。)

日常に食すべき食物は、田畑のなりものが最も良い。そして、鱗のある魚、次に鳥の類。注意すべきことは、鳥の肉にはホ(火)が勝る。

ローソクの燃え終わりには強い光を発するが、ホ(火)が勝るとイノチの火を燃やす働きが強くなる。

鳥肉のホ(火)はそれほどではないが、獣肉はさらにホ(火)が強くなる。

獣でも三音の「キツネ」や「タヌキ」は人体に及ぼす影響がさらに強くなり、体が硬くなり、ソラ(空)肥えをして短命に終わる。

さらに、二音の獣肉イノ(猪)、マシ(猿)、ウシ、ムマ(馬)は更に害が強くなる。

これを見ると、農作物が最も体に良くて、次に鱗のある魚、次に鶏肉とあります。確かに肉類は消化に負担がかかるため、アマテルカミの仰ることはごもっともだと思います。

アマテルカミは肉類は絶対食べてはいけないと禁じているわけではなくて、食料が豊かな時にのみと但し書きを付けています。

スワノカミタケミナカタさんは、このお触れに対して「信濃はとても寒いので、冬の寒さを凌がないと凍えて病になってしまいます。そのため、昔から鳥や獣肉を寒さ除けとして摂取しておりますことをご配慮ください。」と返しています。

これに対し、アマテルカミは以下のように語られます。

食物に適する魚は40種類ほどあります。これを食する場合はススナ(かぶら菜)を食べてホ(火)の勝りすぎを消してください。また、次にホの強い水鳥も良しとしますがその場合は21日間、ススナを食べて、ホ(火)をそそいでください。その他の鳥や獣肉はやはり食べない方が良いでしょう。

かぶら菜カブの葉でしょうか?アマテルカミの時代にはカブラ菜が最も食害を除去する力が強いとされていました。

ススナが無い時は、スズシロ(大根)で代用していたようです。

さらっと読むと、ふーんと終わってしまいますので、まずはアマテルカミの素晴らしいご配慮を感じ取ってみます。

タケミナカタさんは「寒いので獣肉の摂取を容認いただきたい」と仰って、アマテルカミは、「魚や水鳥であれば食べても良いが、他の獣肉は食べない方が良い」と返しています。

アマテルカミは獣肉が短命にすると御存じだったので、あえて「魚や水鳥にしてください」と仰るところにアマテルカミの愛を感じます。

民が不健康であっては、農作物の収穫にも影響し、民の幸せを維持するためにもアマカミとして民の健康に気を配ることはとても大切なことでした。

アマテルカミの食事アドバイス

では、美鈴が頂いた食事のアドバイスはこのような内容でした。アマテルカミは上古代の方ですが、現代人の食事事情はもちろんご存じなので、それを踏まえたうえでのアドバイスだと思われます。

食事は良質のものを少量摂るのが良いです。質の悪い食事は、かえって無駄に摂取量が増えてしまいます。また、油類を摂るのであれば、ゴマなどの栄養価の高い食材を選ぶと良いです。

インスピレーションで頂いたので、文章にするのが難しかったのですが、このような内容でした。

早速実践してみる

アマテルカミチヨミ草を常食して長生きされたのだから、やはり野菜食がおすすめなのだろうと思い、早速野菜の摂取量を増やしてみました。

実は私は食べ物の摂取量はさほど多くないのに、背中や二の腕、お腹周りに脂肪が蓄積されてなかなか取れませんでした。

やはり現代食は油分が多いのか、運動してもなかなか体脂肪が落ちないことが悩みでした。

そこで、野菜食中心の食事を意識する事にしました。

とはいうものの、生野菜は食べづらいので、とりあえず蒸してみます。

調味料を付けずにそのまま食べます。青菜など食べづらい場合のみ少量の塩と醤油をつけて食べます。

感触としては、野菜メインにすると、体が楽でかえって空腹感を感じることが少なくなりました。更に、力が出ることが分かりました

我が家に主人が購入した懸垂器具があるのですが、以前は自分の体を持ち上げるだけで精一杯だったのに、

野菜メインにしたら、ひょいと体を持ち上げられるようになりました。

1週間ほどそのような食生活を続けていたところ、脂肪がついていた背中や二の腕に痛みを感じるようになり、体に蓄積された体脂肪が減ってきたのです。

自分では、さほど食べていないとは思っていましたが、やはり脂分の多い食べ物を沢山摂取していたことを改めて実感しました

現代人は心身の疾患に悩む人も多いですが、改めて食を見直すのも良いかもしれません。

最後までお読みいただきありがとうございました!

伊勢神宮参拝記 番外編

こんにちは!今回は伊勢神宮本編で取り上げなかったエピソードをご紹介します。

伊勢神宮別宮 月夜見宮

伊勢神宮 外宮の火除橋を渡り、神路道路をまっすぐ進むと別宮の月夜見宮があります。ちなみに伊勢市中村町にも別宮の月読宮が鎮座しておりますが、そちらは時間の関係上参拝できませんでした。

皇大神宮別宮:月夜見宮

こちらの御祭神は月夜尊とあります。この方はホツマツタヱではツキヨミという方で、ヲヲンカミ(天照大神)弟君にあたる方です。

今の宮崎県宮崎市阿波岐原町産母付近でお生まれになりました。イミナはモチキネというお名前でした。

ツキヨミノミコト

兄のアマテルカミと共にヒタカミで勉学に励み、イヨツヒメを妃に迎えたためイヨ(伊予)の統治を任されます。

お二人の間に生まれたイフキヌシという方がハタレ乱の平定で大活躍をします。

ツキヨミさんの息子、優秀なイフキヌシさん

イフキヌシさんの功績は多数あるのですが、ハタレの乱で亡くなった多くの迷い魂をタカノミヤ(現:高野山)にて鎮めた功績からアマテルカミよりタカノカミの称え名を賜ります。

イフキヌシさん

ハタレを平定した後、悪行に染まっていない9万9千人は高野山に預けられ、その名を記したヲシテを高野山の玉川に埋めたとあります。

やがてタカノには化け物が横行したため、イフキヌシさんが宮を建てて迷える魂を鎮めたのです。

その由来から空海さんが後世、高野山に寺院を建立したそうです。

高野山(出典;Photo AC)

前置きが長くなりましたが、ツキヨミさんに参拝させて頂きました。

ツキヨミさんは祓詞にも出てくる阿波岐原のお生まれですし、伊予をおさめていたので、

西国に御縁があるせいか、お会いする機会がありませんでした。

月夜見宮

しかし、兄のアマテルカミに付き従ってヒタカミで勉学をされていますし、兄のアマテルカミ

ハラミノミヤにおられた時に兄に仕えていたので、関東に縁がないわけではありません。

早速祝詞を奏上してご挨拶をします。歓迎して下さったですが、はっきりとは繋がれませんでしたが、ツキヨミさんに愛と感謝をお伝えして参拝を終えました。

ツキヨミさんに縁の神社は伊予市上野に鎮座する伊予神社が居住地だったとされています。

外宮の授与品

外宮参拝時に授与所御朱印を頂いて、授与品を見ていたところ、素敵なお守りを見つけました。

開運鈴守という勾玉型のお守りです。私は勾玉の形がとても好きなので、安房神社でも勾玉形のお守りを購入しています。

このお守りをトヨケカミだと思って大事にしています。

写真をご覧いただくと分かるのですが、大きめの素敵な鈴が付いています。

開運鈴守

お守りのサイドに紫色の紐があしらっていて、とにかく素敵なんです!一目で気に入ってしまいました。

サイドの作りも凝っている

初穂料が1,000円なのですが、このお守りを作るのにもっとお金がかかっているのでは?と思うくらい素敵なお守りで大事にしています。

紫色の他にも白、オレンジ、ピンクがあります。

安房神社で購入した勾玉の根付

ちなみの安房神社金運お守りはとても有名らしく、購入している参拝者の方を見かけましたが、私は何故かこの勾玉のお守りが気になり愛用しています。

もう少し色々ご紹介したかったのですが、今日はこのあたりにしたいと思います。最後までお読みいただきまして、誠にありがとうございました!

ヲヲンカミとの出会い:伊勢神宮内宮

こんにちは!前回の伊勢神宮参拝記の続きです。外宮を参拝し、トヨケカミとの感動の出会いを果たしました。感動の余韻に浸りながらバスで伊勢神宮の内宮に向かいます。

台風も近づく中、雨が降ったり止んだりしていました。外宮では一旦晴れ間が見えましたが、内宮に向かう途中に小雨が降りだしました。

私は御祭神を描く際にしっとりとした雰囲気をだしたいので、月を背景に良く使うのですが、アマテルカミは太陽そのものという方です。

時刻はお昼近くでしたが、アマテルカミにお会いしたい気持ちが勝り、そのまま内宮に向かいます。平日にもかかわらず、多くの参拝者で賑わっていました。

内宮の鳥居の前

内宮の鳥居に着くと、途端にピカーっと日が差しました。眩しいくらいと輝いています。本当に太陽のような方だったんだなとしみじみ思いました。

出迎えてくださったヲヲンカミ

内宮に着くと、宇治橋鳥居をくぐり、宇治橋歩いて五十鈴川を渡ります。なんとアマテルカミはこちらで出迎えてくださったのです。

「どうしてこんなに喜んで下さるんだろう?」不思議に思いました。

五十鈴川の清流

以前にアマテルカミはとても謙虚な方だと書きました。本当に、本当に謙虚な方で、参拝者を入口まで出迎えてくださるのです。

ここでもホツマツタヱが真実だと実感してしまいます。本当に凄い方ですよね?

しかも宇治橋鳥居の手前にヤマトタケさんが来られたのです。凄い~。ヤマトタケさんはアマテルカミの子孫なので、何ら不思議なことはないのですが、御祭神の絆には本当に驚かされます。

私はこれまで数多くの神社に参拝しましたが、御祭神は本殿におられる場合もあるし、鳥居の手前で話しかけてくださる方もおられます。(恐らく御祭神の性格なのでしょう。)

アマテルカミはどんな方?

今回ははっきりとアマテルカミにお会い出来たのですが、アマテルカミを一言で言うならば「与える人」です。本当に愛の深い方なのです。また「喜びも悲しみも共に分かち合いたい」方でもあります。

こちらが愛を投げかけると、何倍も何十倍にも愛を返してくださる方なのです。

五十鈴川の水面にも太陽が写る

外宮でトヨケカミにもお会いしていますが、アマテルカミとは対照的な部分もあります。トヨケカミ「陰」であれば、アマテルカミ「陽」、トヨケカミは「静」ならばアマテルカミは「動」といった感じです。

とにかく私の訪問を喜んで下さったのです。

アマテルカミはお生まれになったときに「我はウヒルギである」と産湯につけたシラヤマ姫告げています。いときょう氏 古代史ホツマツタヱの旅 第3巻参照

頭上にさんさんと輝く太陽から、改めてアマテルカミ太陽ミタマであると告げているかのようでした。

広々とした明るい庭園を歩いて、御正宮に向かいます。アマテルカミは途中まで一緒に歩いてくださったのですが、その後気配がなくなり、再度、風日祈宮橋でお会いできたので、橋のたもと、五十鈴川の流れが良く見える場所がお好きなようですね。

心が洗われるような五十鈴川の清流

長生きされたヲヲンカミ

アマテルカミはとても長生きされ、玄孫(孫の孫)ウガヤフキアエズ様の即位の際にもミコトノリを出されています。この時もまだ伊雑宮におられたようで、内宮の地に遷られたのは本当に最晩年だったようです。

内宮の鳥居

ウガヤフキアエズ様即位の際に出されたミコトノリのすべてを紹介すると長いので一部のみご紹介します。

民の声をよく聞いて、可愛いわが子の心を知る親のように、民の動きに敏感であって欲しいものです。この際にへりくだる心とやわらぎの心を失ってはなりません。凶暴なハタレにさえこの態度で接したのです。(途中略)温かい心で民を恵む気持ちを怠ってはなりません。秘められた日本古代史(続)ホツマツタヱ 松本善之助著 より

松本氏の著書を読むと、アマテルカミは様々な文書(ヲシデ)を読んで、天の窮理を知ることが出来たとありますが、アマテルカミ愛情深い性格は生来もっておられた性質のように思います。

凶暴なハタレにですら、愛を持って接したとあるので、並大抵のことではないですよね?アマテルカミが京都の久治岳に入寂された時は、本当に世の中が真っ暗になってしまったように悲しい出来事だったのでしょう。

富士山麓に生えていたチヨミ草を常食されたため、長生きされたアマテルカミですが、チヨミ草は大変苦い草だったようです。そんな苦い草を食べ続けることだって常人には出来ないことですよね。

そんなアマテルカミに感謝と深い尊敬の念を抱いて、御正宮に向かいました。人の居ない参道で大祓の祝詞を奏上してからお参りさせて頂きました。アマテルカミは散策中なのか御正宮にはおられないようでした。

ヲヲンカミが共に歩いてくださったお庭

松本善之助氏は夢の中で、アマテルカミが老若男女、民、臣下問わず、人々に教え導く様子を夢で見たそうですが、本当にそうだったと思います。それだけ私たちと距離の近い方なのです。

これも伊勢神宮に対するステレオタイプを覆す出来事でした。伊勢神宮は特別な人しか参拝できない敷居の高い神社というイメージがあったのです。実際はアマテルカミの愛に触れられるとても温かい神社でした。

名残惜しい参拝

摂社末社を参拝し終えて、いよいよ帰ろうという時、ヲヲンカミが悲しまれておられるのか、途端に大粒の雨がザーザー降り出したのです。また参拝に伺おうと心に決め、アマテルカミにご挨拶をして内宮の地を後にしたのでした。

以上で内宮編はおしまいです。最後までお読みいただきありがとうございました!

人生を変える参拝:伊勢神宮 外宮

こんにちは!今回は伊勢神宮参拝記外宮編です。台風が近づく某日、三重県伊勢市に鎮座する伊勢神宮に参拝しました。

伊勢神宮の外宮は豊受大神宮といいます。伊勢神宮は外宮から先に参拝することになっています。御祭神は豊受大神(ホツマツタヱではトヨケカミ)です。

トヨケカミ

背後についている方々も楽しみに

トヨケカミアマテルカミにお会いできるのをとても楽しみにしていましたが、どうやらそれは私だけではなかったようです。

出発の前日から当日にかけて背中がカーッと熱く、一日中汗ばんでいました。「今日ってそんなに暑かったっけ?」と夫に聞いたら、長袖を着込んだ夫が「いや、全然暑くないけど」と不思議そうに言いました。

どうやら、私の背後についている方々も伊勢行きを楽しみにされているようです。

外宮の最寄り駅は伊勢市駅宇治山田駅で、徒歩8分~10分前後で到着します。

小雨が降りしきる中、外宮へ向かって歩きました。豊受大神(ホツマツタヱではトヨケカミ)に初めてお会いできると思うと感無量でした。

以前、トヨケカミを祭る神社を参拝したことはあるのですが、スピリチュアル的にお会いできなかったのです。

外宮に到着すると、緑豊かな自然に癒されます。しとしと雨が降っていたので、森林の澄んだ空気に身も心も清々しくなりました。伊勢神宮にまだ参拝されていない方は、是非この豊かな自然を堪能して頂きたいと思います。

清々しい外宮の参道

伊勢神宮は授与所御正宮など撮影禁止の案内がある場所以外は撮影可能となっています。

手水舎を身を清めて、鳥居を二か所くぐると授与所に着きました。お守りと御朱印を頂いて先に進みます。

外宮の鳥居

他の参拝者の方々の後をついて、御正宮に向かって歩きます。

御正宮の前で起きたスピリチュアル体験

実は、トヨケカミの御正宮に参拝する前に人の居ない参道でひっそり大祓の祝詞を奏上しました。なぜ大祓の祝詞を奏上したかというと、理由があります。

以前、トヨケカミアマテルカミをお祭りする神社に参拝しましたが、御祭神はおられませんでした。

ただその場を守る眷属はおられて「ヲヲンカミ(=天照大神)の御前では大祓の祝詞を奏上するように」と仰ったのです。

ちなみにアマテルカミには過去に有鹿神社でお会いしていますが、ご本人は大祓の祝詞を奏上しなさいとは仰らないです。

私はなぜだろう?と思ったのですが、大祓の祝詞は通常の祓詞よりも雑念が取り除かれます。古代のアマカミ(=天皇)は「体のケガレは禊で払い、心のケガレはウタで払う」と仰いました。

眷属の方は、大祓の祝詞を奏上して「御前では身も心も清くしなさい」という意図だったのでしょう。

大祓の祝詞を奏上しているうちに、ただただトヨケカミに申し訳なくて、本当に申し訳なくて、ボロボロと泣き出してしまったのです。

トヨケカミの存在もよく知らなかったし、かつて荒んでいたホツマノクニ(今の関東地方)を豊かにしたのはトヨケカミであったこと、日本の総氏神様ということ、その他もろもろのことを今まで感謝もせず過ごしてきたこと、本当に申し訳なく思いました。

なぜこんな気持ちになったのか、それはトヨケカミスピリットに触れたからだと思います。

同時にもの凄いエネルギーを受けて、高波動当たりなのか、頭がぐわーんとして、体がジーンとしました。

トヨケカミに実際にお会いして分かったのですが、トヨケカミご自身の存在を主張しない方なのです。ちょっと説明が難しいのですが、私たちが想像する以上に、何倍も、いや何十倍も、とにかくびっくりするぐらい謙虚な方なのです。(ちなみにアマテルカミもとても謙虚な方です)

後で知ったことですが、西行法師さんも伊勢神宮を参拝して以下のウタを詠んでいます。

何事
なにごと
の おはしますをば しらねども かたじけなさに 
なみだ
こぼるる  ──『西行上人集』

「西行法師さん!私もまったく同じ気持ちでしたよ~!!」

御正宮の素晴らしさ

号泣が収まり改めて、御正宮の前で参拝させて頂きました。とにかく建物が素晴らしく、華美を抑えた質素なつくりなのです。

御正宮は撮影不可なので、参考までに別宮の風宮の写真を掲載します。

風宮

人によっては物足りないと思うかもしれませんが、ここに日本文化の素晴らしさが見て取れます。

カミヨの時代、指導者は必要以上に華美豪華なものは好まれませんでした。あくまでも公(おおやけ)を重視したからです。

質素な生活をしている民衆の前で豪華絢爛な建物を立てて、贅沢三昧している指導者がいたら、民はどう思うでしょうか?一歩間違えたら反乱になりそうですよね。

アマテルカミトヨケカミが本当に民のための政治をされていたということが窺い知れる建物でした。とても有難く、感動に浸りながら、トヨケカミの荒御魂をお祀りする別宮に向かいます。

トヨケカミが来て下さる

別宮に向かう途中に水辺があるのですが、なんとトヨケカミが来てくださったのです。

御祭神は龍雲鳳凰雲の姿で現れることもあるし、動物などで現れることがあります。以前にヤマトタケさんがシラサギとして現れると書いたのですが、なんと鳥のお姿でトヨケカミが来られました。

小雨がしとしと降る中、より一層神聖な雰囲気を醸し出していました。

鳥の姿で現れたトヨケカミ

「トヨケカミ来てくださったんですね。本当に嬉しいです。この国の発展に尽力して下さり、本当にありがとうございます。」

何度もお礼を伝えました。

トヨケカミとの出会いに深い感動を覚えて、外宮を後にしました。

外宮の木立

外宮を去る前に小雨も上がり、木立の合間から日が差していました。どこまでも歓迎して下さるトヨケカミなのでした。

別宮のお社もすべて参拝させていただき、心が洗われる神秘的な体験をさせていただきました。

最後までお読みいただきありがとうございました!

ヲヲンカミに呼ばれました

皆さんこんにちは!前回クシヒコさん(=オオクニヌシノミコト)が祭られている大神神社に行きたい!というエピソードを書きましたが、今回はその続きです。

大神神社奈良県桜井市に鎮座する大和国一之宮神社です。

クシヒコさんに縁の神社なので、参拝に伺いたい気持ちはあるけれど、「先立つものが、、、」

と悩んでいたある日のこと。

玄関先に現れた幸運の虫

夫が玄関先に珍しい虫がいると呼びに来てくれました。

幸運の象徴:タマムシ

調べてみるとタマムシという虫でした。とても縁起の良い虫でタマムシを見ると臨時収入など金運に恵まれるそうです。

「臨時収入かぁー、入るといいけど、まさかね」っと思っていたその一か月後、

夫が「臨時収入が入った」と言いました。

しかも、いつもは臨時収入が入っても何らかの支払いで消えていたのに、今回は臨時収入の一部を使っても良いとお達しが出ました。私は「やったー!大神神社に行ける!」と大喜びしたのでした。

しかし、、、様々な諸事情から奈良に行けません。(涙)クシヒコさんは私の奈良行きを喜んで下さったのになんでー?と思ったのです。

暫くして、クシヒコさんの意図が分かりました。

「大神神社に参拝したいお気持ちは嬉しいです。では、まずヲヲンカミにご参拝ください」という意味だったのです。

よく考えればそれもそうなのです。そもそもクシヒコさんは臣下です。臣下に先に参拝するより、アマカミに先に参拝するのが筋です。クシヒコさんがおっしゃることはごもっともなのです。

アマテルカミは偉大な方ですが、その偉大な方を教え育てた方がトヨケカミです。そのため伊勢神宮の外宮にお祭りされているトヨケカミを先に参拝するようになっているのでしょう。

ヲヲンカミとは?

ヲヲンカミとはアマテルカミ(天照大神)のことです。クシヒコさんにとっては外祖父でもあるし、偉大なアマカミ(上古代の天皇)でもありました。

10代の頃のアマテルカミ

ヲヲンカミに縁の神社と言えば、伊勢神宮比沼麻奈井神社が真っ先に浮かびます。比沼麻奈井神社近辺(久治岳)でもヲヲンカミにお会いできそうですが(何といっても御陵がある場所なので)、今回は交通の便を考えて伊勢神宮にしました。

三重県伊勢市には伊勢神宮の他に、伊雑宮(イサワノミヤ)という神社があります。アマテルカミはアマカミに即位された後、富士山南麓のハラミノミヤにおられましたが、外祖父であるトヨケカミの遺言もあり、三重県の伊雑に宮を遷します。

長年イサワノミヤにおられたアマテルカミが、現在の伊勢神宮内宮の地に遷られたのは晩年になられてからでした。

伊勢とは本来夫婦という意味なのです。アマテルカミは晩年教育に力を入れ、夫婦の教え(=イセノミチ)、世継ぎ子得る教え、食養の教え、子どもの教育論など人々の指導にあたりました。

いかがでしょうか?現代にも通じる重要な教えではないでしょうか?アマテルカミのおられた時代から文明が発達し、生活水準は大幅に変わりました。しかし、根本的な人間の悩みは太古の昔からさほど変わらない気がします。

アマテルカミは人とは何であるか?人の真の幸せは何かを追及され、倫理、哲学、教育の分野でも多大な影響を及ぼしました。そのため、アマテルカミの治世に国が豊かになったのです。

伊勢神宮は日本の最高位の神社ですが、それはアマテルカミの立てた功績があまりにも大きかったからと言えるでしょう。

アマテルカミは尊敬する偉大な祖父トヨケカミが入寂された京都の久治岳で崩御されることを強く願われたため、久治岳の洞で入寂されました。肉体はありませんが、アマテルカミはスピリットな存在として今もおられます。

ヲヲンカミに呼ばれた理由

結果的に大神神社から伊勢神宮行きになりましたが、実はアマテルカミが伊勢に呼んで下さったと思っています。

臨時収入も予想外で、本当に天から頂いたという感じでした。

何故アマテルカミに呼ばれたのか思い当たるふしがありました。それは、当ブログでトヨケカミを紹介したことです。

もちろん、お妃のホノコヒメや皇太子オシホミミ様を紹介したことも喜んで下さったのですが、アマテルカミトヨケカミに対する思いは更に強いと感じました。

アマテルカミの偉大な師匠:トヨケカミ

トヨケカミ(=豊受大神)アマテルカミの外祖父でもあるし、日本人なら誰でも知っている有名氏族のご先祖様でもあります。諱(本名)タマキネというお名前で、イサナギ・イサナギ様を輩出した東北の名門タカミムスビ家第5代当主です。

トヨケカミ

東北・関東の地を立派に治めたので、ホツマキミ・ヒカシノキミ・トヨウケなどの称え名が与えられました。

トヨウケとは豊穣な食糧で人々の生活を豊かにしたという意味があります。

アマテルカミトヨケカミのことをブログで書くと本当に喜ばれます。それほど大好きな祖父であったし、アマテルカミの存在そのものに多大な影響を与えた師匠でもありました。

トヨケカミは孫であるアマテルカミにご自身の持てるあらゆる英知を授けます。

アマテルカミの喜ばれる姿を見るとホツマツタヱには真実が書かれていると実感します。(アマテルカミとは以前有鹿神社でお会いしています)

トヨケカミ比沼麻奈井神社に祭られますが、垂仁天皇の時代にヤマトヒメによって伊勢神宮の外宮に祭祀されます。

外削ぎ・内削ぎの重要な意味

伊勢神宮には外宮・内宮がありますが、外宮の千木(社の屋根から突き出ている木)は外削ぎ内宮の千木内削ぎになっています。これは男神・女神という意味ではありません。

外削ぎは、父母であれば、縦横ならば、柔硬ならばを意味します。反対に内削ぎは父母であれば、縦横ならば、柔硬ならばを意味します。

世の中を上手く収めるには白黒をはっきりさせる男性的な面も必要もあるし、時には国民に恵みを与える女性的な面も必要であるという意味が込められています。(池田満氏 ホツマ辞典参照)

これは子育てにおいても言えます。甘やかしすぎるとと我儘に育つし、厳しくしすぎると自信の無い子に育ってしまいます。世の中のルールであったり、物事の白黒はしっかり教えて、愛情を持って育てる柔軟さが必要です。

アマテルカミの時代にハタレの乱という全国的な騒乱が起きました。発端となったのが、ご自身の弟と妃でした。身内だからと言って、温情を与えては民が納得しません。指導者は罪を犯した者は厳しく処罰しなければなりません。

その一方で民に慈しみを与え、優秀な功績を立てたものには賛辞を送りました。アマテルカミの治世に国が豊かになったのも納得できます。

喜んで下さるアマテルカミ

伊勢行きがきまり切符の手配も済んだある日。

子供を自転車に乗せて送迎していたら、頭上に大きな鳳凰雲が現れました。(送迎中で撮影が出来なかったので、PhotoACさんからイメージを拝借)

びっくりして自転車でひっくり返りそうになりました。しかもその鳳凰雲の周りに無数の龍雲、鳳凰雲、飛んでいます。それはもうたくさん。

以前に私は鳳凰は皇位継承者を意味するとブログに書きました。とびきり大きい雲はアマテルカミ(天照大神)を意味します。もし皆さんが巨大な鳳凰雲を見たら、それはアマテルカミがお傍におられる。あなたを見守っているという意味になります。

アマテルカミが喜んでおられると思ったのですが、「どうしてこんなに喜んで下さるんだろう?」と不思議でした。

次回は伊勢神宮の参拝記を書こうと思います。最後までお読みいただきありがとうございました!

ヤマトタケさんを偲ぶ古社:神奈川県 寒田神社

こんにちは!前回のヤマトタケさんの歴史を踏まえた上で、今日はヤマトタケさん縁の神社をご紹介します。

神奈川県足柄上郡に鎮座します寒田神社です。こちらの神社はいときょう氏著 古代史ホツマツタヱの旅 第3巻を読んで知りました。

寒田神社はヤマトタケさんの東国遠征の際に立ち寄った場所です。西暦400年頃の創建された古社で、ヤマトタケさんが使用したのではないかとされる木製のお椀が残されています。(弥生時代後期の作)

御祭神倭建命弟橘比売命の二柱です。

ヤマトタケさんはホツマ国(関東)の国境に到着し、足柄の矢倉岳から小野にある反乱軍の要塞を視察します。小野の要塞には愛妻のヲトタチバナヒメがおられるので、ヤマトタケさんにとっては辛い遠征でした。

ヲトタチバナヒメ
矢倉岳の麓にある寒田神社

地図を見ると矢倉岳から寒田神社までは車で20分程です。

ヤマトタケさんはどんな思いで小野の要塞を見つめておられたでしょう。

矢倉岳から小野を視察するヤマトタケさん

寒田神社に呼んで下さったヤマトタケさん

ヤマトタケさんにお会いしたいと思っていたら、ヤマトタケさんに呼んでいただく機会が訪れました。早速、小田急線新松田駅を下車して、寒田神社に向かいます。

寒田神社新松田駅から徒歩10分くらいの場所にあります。

寒田神社の鳥居

早速鳥居をくぐって本殿に向かいます。かなり古くからある古社という雰囲気です。早速本殿に向かい祝詞を奏上してご挨拶をしました。

ヤマトタケさんは確かにおられたのですが、わずかに繋がれるという感じです。

あまりお元気ではないようで、ヤマトタケさんにとって、辛い思い出のある場所というのは間違いないようです。やはり愛妻のヲトタチバナヒメを失った悲しみや、御父上の景行天皇にお会いする前に亡くなられたのが心残りだったのでしょう。。。

それでも自己紹介をしてホツマツタヱを読んでいることや日本の発展に尽力して下さったことに感謝を述べると、とても喜んで下さったのです。

ちなみに、、、

ヲトタチバナヒメを小野の要塞から助け出すことはできたのですが、ヤマトタケさんが小野を制圧後、大磯から船で上総(千葉県)に向かう途中で嵐に会います。ヲトタチバナヒメは嵐を鎮めるために海に身を投げてしまいます。

嵐は無事に収まりますが、ヲトタチバナヒメは見つからず、流れ着いたヒメの帯と櫛を祭る社を二宮の地に建てます。(現在の吾妻神社)
海に身を投げたヲトタチバナヒメ

小野の要塞からようやく助け出したヒメを目の前で失ってしまいました。ヤマトタケさんはどれほど悲しまれたことでしょう。寒田神社の本殿の裏はかなり古くからあるであろう摂社末社が建っていました。

本殿の裏をぐるっと一周して、ご挨拶をしてその日は参拝を終えました。

2度目の参拝

それから暫くして、再度、寒田神社に参拝に伺いました。(ちなみにものすごく土砂降り)本来、雨の日の参拝は控えた方が良いのですが、その日しか都合がつかなかったので、お伺いすることにしました。

鳥居をくぐって本殿に向かうと、びっくりしました。なんと!ヤマトタケさんがもの凄くお元気なのです!!!(雨なのに)明らかに前回とオーラが違います。「今日はすごくお元気なんですね!!!嬉しいです!」とご挨拶だけして帰りました。

笑っておられたヤマトタケさん

普通は土砂降りの神社というと、なんだか近寄りがたい薄暗いイメージなのに、本殿がキラキラ輝いていました。

普段は日々の感謝を伝えたり、お願い事に来る参拝者を見慣れていると思うのですが、場違いなほど明るいオーラの参拝者が「ヤマトタケさん愛してます―!」と、(心の中で)叫んでいるので、ヤマトタケさんもさぞびっくりされたことでしょう。(;^_^A

ヤマトタケさんの象徴

ヤマトタケさんの象徴というかシンボルがあります。本当に不思議なのですが、シラサギです。ヤマトタケさんは東国を平定後、御父上の待つ奈良のマキムクの宮へ帰還される途中で亡くなってしまいます。

ヤマトタケさんはお墓に埋葬されるのですが、お墓から白い鳥が飛び立つのを多くの人が目撃します。そしてその白い鳥の羽は御所市富田と羽曳野市、古市で見つかります。お墓を開けてみると不思議な事に御遺体はありませんでした。

よほど心残りだったのか、白い鳥になって御父上の元に飛び立って行かれたのですね。。。

白鳥神社御祭神はヤマトタケさんなのです。

そして、本当にスピリチュアル的にシラサギで来られることがあります。シラサギは分かるのですが、なぜなのかは分かりません。

ヲトタチバナヒメの櫛と帯が流れたついた大磯の地はアオバトが水を飲みに来る場所と池田満氏の「ホツマで読むヤマトタケ物語」に記載されていたので、これと関係しているのかなとは思います。

最後までお読みいただきありがとうございました!