アマテルカミがお出ましに 神奈川県:伊勢原大神宮

こんにちは!今日は神奈川県伊勢原市に鎮座する伊勢原大神宮を紹介します。

先日、ある眷属の方が「最近、神奈川県のとある神社にアマテルカミがお出ましになっている」と教えてくれました。

「えっ!?それはどこの神社でしょうか?」と尋ねると、「伊勢原大神宮」と仰るではありませんか!「し、しかし、、、その神社は、、、」と思わず美鈴は言葉を詰まらせたのです。

神奈川県伊勢原市に鎮座する 伊勢原大神宮:内宮

それというのも、昨年美鈴はアマテルカミにお会いしたくて、アマテルカミ(天照大神)を祀る神社をあちこち参拝したのですが、ことごとくおられなかったのです。そして、ようやく有鹿神社アマテルカミにお会いすることができました。(その辺りの経緯は過去にブログで書いています)

その時、伊勢原大神宮にも参拝しましたが、やはりアマテルカミはおられませんでした。内宮に眷属の方がおられて「アマテルカミの御前では大祓の祝詞を奏上するように」とおっしゃいました。

伊勢原大神宮:外宮

アマテルカミにお会いしたい!」と思い、早速参拝に良い日を選んで伊勢原に向かうことにしました。

神社の創建は江戸時代初期、山田曾右衛門という方がこの土地を開墾した際に、伊勢の祭神を勧請したため、伊勢原の土地名が付いたとあります。

となると、伊勢原は比較的歴史が新しいということになります。眷属の方のお話では、有鹿神社の場所には既にカミヨ(上古代)の時代から社があったらしいです。そのため古代から社格の高い神社であったようです。

アマテルカミがお出ましに

神社に到着すると「うわー!気の流れが変わっている!」暖かな、優しい御神気で満たされています。

こちらの神社は内宮・外宮の二社殿形式となっていて、伊勢神宮と同じく外宮から先に参拝するようになっています。

晩年、伊勢で人々の指導にあたられるアマテルカミ(髪はお切りになられた)

丁度、内宮で神事が行われており、何と!アマテルカミがお出ましになっておられるではありませんか!早速、アマテルカミにご挨拶をして、この国の発展にご尽力下さった感謝をお伝えします。

アマテルカミは上半身はのお召し物、下は青色系のお召し物(恐らく「モ」というスカート状のお召し物)で現われました。伊勢神宮でお会いした時は黄色?山吹色のような暖色系のお召し物でした。

毎回思うことなのですが、、、

いや、現在進行形で今もおられるんですけど

アマテルカミの真の威力

アマテルカミはあまりにも祓う力がお強いので、立っていられなくなり、境内にあった腰掛に暫く座り込んでしまいました。

アマテルカミ最高神ですし、とにかく祓う力が強いです。実は、伊勢神宮の参拝前後に極度の体調不良に見舞われました。恐らく好転反応や毒出しと思われますが、この強烈な毒出しの後で、悪習慣をほぼ断ち切ることが出来ました。

また先祖代々から受け継いだ悪いものまで、アマテルカミは祓って下さったのです。

伊勢神宮 遥拝所

伊勢原大神宮には伊勢神宮の遥拝所があります。この遥拝所は本当に伊勢神宮と繋がっていて、お祈りをするとジーンと込み上げるものがありました。

伊勢神宮に行けなくても強力に祓って頂けるのはとても嬉しいですね。しっかり祓って頂く場合は、神主さんが常駐している神社がおすすめです。

この神社はおやすみ処も併設しているので、おしるこをいただきました。

可愛らしい桜のお守りも購入しました。(初穂料700円)

アマテルカミの強烈な波動をいただける伊勢原大神宮に機会がありましたら是非ご参拝ください!

最後までお読みいただきありがとうございました!

ホホテミ様参拝記 埼玉県深谷 瀧宮神社

こんにちは!前回お伝えした関東ホホテミ様にお会いできる神社を紹介します。カミヨ(上古代)の時代に詳しい眷属の方が教えて下さった神社は、埼玉県深谷市に鎮座する瀧宮神社(たきのみやじんじゃ)でした。

その時、美鈴は思わずこう尋ねてしまいました。「埼玉ですか?一見ホホテミ様にゆかりがなさそうですが、、、」

眷属の方のお話ではその土地にゆかりが無くても、御祭神が来ることは可能であるし、この神社の方は御祭神の由緒をちゃんと把握して、大切にお祀りしているのでホホテミ様は来られるのだそうです。

早速、良い日を選んで参拝に伺うことにしました。

瀧宮神社 由緒

神社に到着すると、湧き水をたたえた池が沢山ありました。お社は広く、一之宮社並みの大きさです。ホームページを見ると古い歴史があるようで、太古の昔から湧く湧き水が御神水となっているそうです。御祭神は天照大御神、豊受大御神、彦火火出見尊となっています。

ここに来る途中、秩父山脈の美しい山々が見えたのですが、ヤマサチことホホテミ様に相応しい神社です。

神社はJR深谷駅のすぐそばにありました。入口手前に風情ある川が流れています。駐車場から既に御神気が感じられ、境内に入ると、説明できない幸福感に包まれました。

本殿の手前で御神水のお水取りができます。

ホホテミ様はどんな方?

神社に向かう途中、美鈴は「ホホテミ様は一体どんな方だろう?」と思いました。ホツマツタヱには兄上のホノススミ様とのやり取りが書かれていますが、具体的な人物像がイメージ出来ませんでした。

ホホテミ様三男であるし、やはりやんちゃな方だったのかな?とかあれこれイメージを膨らませました。

ホホテミ様の人物像

早速、本殿におられるホホテミ様に丁寧にご挨拶をして、この国を豊かにして下さったお礼をお伝えします。ホホテミ様はとても喜んで歓迎して下さいました。

お会いしたホホテミ様はとても謙虚で、どちらかと言えば控えめで穏やかな方でした。(ただ、アマテルカミニニキネ様とお会いした時ほどはっきりとは繋がれなかったので、会話までは出来ませんでした)

ホホテミ様ニニキネ様アシツヒメに似ておられると思ったのですが、何とアマテルカミに似ておられるではありませんか!まさしく第二のアマテルカミという感じなのです。

「ホホテミ様は隔世遺伝だったのですね!」

そうなのです。ニニキネ様アシツヒメが血縁同士の結婚であったので、アマテルカミの性質が色濃くホホテミ様に出たものと思われます。

そういうこともあって、ニニキネ様のお眼鏡に叶った方なのだと納得しました。また、かなり情緒が豊かな方のようで、民への深い慈しみのお気持ちもお持ちだったのでしょう。

ホホテミ様が素晴らしいのは、一参拝者の美鈴にへりくだってくださるし、そして、ご自身の兄上であるホノアカリ様ホノススミ様に対してもちゃんと敬意を払っておられるところです。

目下の者にへりくだる、目上の人には敬意を払う」この姿勢はアマテルカミニニキネ様と全く一緒です。(オシホミミ様にはお会いしていませんが、恐らく同じなのでしょう)

美鈴の頭の中でアマテルカミのミコトノリが連呼します。

「必要なのはへりくだる心であり、やわらぎの心も失ってはなりません。あのどうしようもなく狂暴なハタレに対してさえ、基本的にはこの態度で接したのでした」

これこそが、アメナルミチの真髄であるし、歴代のアマカミはこの言葉から全くブレていないのです。

深い感動を覚えた美鈴は何度もお礼をお伝えして大君(=ホホテミ様)の御前を後にしたのでした。

ホホテミ様参拝後

瀧宮神社は一之宮社ではありませんが、ホホテミ様はとにかく祓う力がお強いので、一之宮社並みに祓って頂きました。(ちゃんと祓っていただく場合は、やはり神主さんが常駐しておられる神社がおすすめです)

ホホテミ様のスピリットに触れたせいか、帰宅後はこれまで、ホホテミ様の偉業を知らなかったこと、偉業に感謝してこなかったことがただただ申し訳なくて、涙する状態続きました。(トヨケカミとお会いした時も同様の経験をしました)

ホホテミ様のスピリットに触れられる瀧宮神社はとても素敵な神社でした。

瀧宮神社の御朱印を頂いてきました。しおりの左上に綺麗な折り紙が添えてあり、配慮が感じられました。機会がありましたら、是非ご参拝ください!

最後までお読みいただきありがとうございました!

ホホテミ様はどちらに

前回はニニキネ様のお子様、ホノススミ様ホホテミ様のエピソードを紹介しましたが、今回はホホテミ様にゆかりの場所や神社をクローズアップしたいと思います。

美鈴がなぜカミヨの天つ日嗣の方にこだわるのかと言えば、この国の発展にとりわけご尽力下さった方々なので、大切にしたいと思うのです。

ツクシ(九州)を開拓されたホホテミ様

ホホテミ様に縁の場所

さて、ホホテミ様にゆかりの場所はホツマツタヱの随所に出てきますが、北陸、近畿、九州にご縁がある方と分かります。これはニニキネ様が、富士の裾野京都盆地を開拓された後、九州灌漑事業に向かわれたからですよね。

ニニキネ様アマテルカミの意を受けて、アメナルミチ(恵み和す精神)を大成された方です。

サルタヒコさんはニニキネ様にこう伝えます。「ニニキネ様は尊い事業を全国に展開なさる方、ツクシの果て、古いゆかりの地:タカチホに行かれるのがよろしいでしょう。渇望する人々がおります」

そのため、ニニキネ様は九州に向かい、人々の生活をさらに豊かにした後、霧島山カミアガリ(洞穴に入り亡くなること)されます。

ホホテミ様にゆかりの地①:福井県敦賀と滋賀県大津

前回のエピソードを読むと、ホホテミ様福井県敦賀市イササワケノミヤ(現:気比神宮)にお住まいだったことが分かります。

松本善之助氏によると、気比神宮ホホテミ様御遺骸を葬る御陵であったとも書かれており、御祭神のイササワケは誰なのか諸説ありますが、本来はホホテミ様のことなのだそうです。

「ケヒ」とは食飯(ケイヒ)が短くなった言葉で、ホホテミ様ツクシ(九州一円)を巡って、井堰(いせき)をつくり、新田を開いた功績を讃えて、ケヒノカミケキノカミ)と名付けられたことが由来となっています。

ホホテミ様は妃トヨタマヒメと共に、シノミヤ(滋賀県大津市の天孫神社)でお亡くなりになります。天孫神社の御祭神は由緒どおりホホテミ様(彦火々出見命)となっています。

滋賀県大津市:天孫神社

ホホテミ様にゆかりの地②琵琶湖東南岸

さて、次にホホテミ様にゆかりの土地はミヤコのあったミツホ(琵琶湖の東南岸)となります。ミツホノミヤは本来ニニキネ様の行宮だったのですが、ニニキネ様はこの地にミヤコを遷します。

ホホテミ様もミツホにミヤコを置いたので、第十二代アマカミウガヤフキアハセズ様ミツホでお育ちになります。

ウガヤフキアハセズ様の代でミヤコタガに遷ります。ミツホノミヤの明確なおおよその場所は野洲川河口付近の中主町・守山市付近が有力とされています。

ホホテミ様にゆかりの地③福井県小浜市遠敷

もう一つのゆかりの地は福井県小浜市遠敷です。今は、遠敷「おにゅう」と読むらしいのですが、かつては「ヲニフ」と呼ばれていたそうです。「ヲニフ」とは「ヲ=天君(ホホテミ様が)ニギニギしくおいでになる場所」つまり皇居という意味になります。

ホホテミ様は譲位のため、ヲニフにおられたウガヤフキアハセズ様ミツホに呼ばれる内容がホツマツタヱに書かれています。

小浜市に鎮座する若狭国一宮、上社の若狭彦神社の御祭神はホホテミ様下社の若狭姫神社の御祭神トヨタマヒメと由緒どおりです。

福井県小浜市:若狭彦神社

ホホテミ様にお会いしたい!

さて、ここまで読むとホホテミ様はやはり福井、滋賀、九州に御縁のあるお方だと分かります。関東でホホテミ様にお会いできる社はないものか?と考えました。

ホホテミ様

御父上のニニキネ様関東にゆかりの方なので、お会いできる神社をなかなか特定できなかったものの、近いうちにお会いできるとは思っていました。ですが、ホホテミ様となると少し難しそうな気がします。

(美鈴の直感で恐らく神奈川県ではないと思いました。)

ですが、関東一円まで範囲を広げると、探すのはとても大変です。しばし、頭を悩ませましたが、カミヨ(上古代)の時代に詳しい眷属の方に尋ねることにしました。

「関東でホホテミ様にお会いできる神社はないでしょうか」と尋ねると、「ある」とおっしゃるではありませんか!

「そ、その神社とは、一体どこなのでしょうか?」と尋ねると、

なんと、意外な都道府県の、美鈴も初めて聞く神社の名前が出てきたではありませんか!

次回はホホテミ様にお会した内容を書こうと思います。美鈴はそこでホホテミ様の衝撃的な人物像を目の当たりにします。

それでは、最後までお読みいただきありがとうございました!

ホノススミ様とホホテミ様(後編)

前回のお話の続きになります。

ホホテミ様は、ハデツミさんの分家筋にあたるシガノカミを通じて、ヨトヒメが見つけた釣り針を兄のホノススミ様に届けさせます。

シガノカミとは、九州全域を治めていたカナサキさん(=ハデツミさんの祖父)の分家筋に当たる方です。九州北部を本拠地とし、ニニキネ様・ホホテミ様から農業指導を仰ぎ、九州地方の開拓を実現した方です。

シガノカミワニフネ(上古代の高速船を指す)に乗って、シノミヤ(滋賀県大津市:天孫神社)ヤマクイさん(一般的に大山咋神と呼ばれるを招いて、ウカワにおられるホノススミ様ミヤ(現:鵜川 白髭神社)に出向きます。

ウカワノミヤ(現:白髭神社付近)

ヤマクイさんとは、ニニキネ様の意を受けて、京都盆地を開拓した方です。滋賀県大津市坂本に鎮座する日吉大社の祭神になっています。

滋賀県大津市 日吉大社

ホノススミ様ヤマクイさんが伝えます。

「この釣り針は我が君が貴方様からお借りして失くしたものです。私がお持ち致しました。」

ホノススミ様釣り針を手に取って調べ、「確かにこれは私の釣り針だ」と言いながら、さっさと立ち去ろうとします。

ヤマクイさんは思わず、ホノススミ様の袖を掴み、「マチジ(=これはお粗末な針で、返せとせがむ程、上等な釣り針ではないという意味)」と言います。

それを聞いたホノススミ様「道理をわきまえず、ののしるとは何事ぞ、弟自ら返しに来るのが道理ではないか!」と叫びます。

ヤマクイさんは続けます。

「お借りした時、糸は既に切れそうでした。新しい糸に取り換えて、弟君に貸すのが筋ではありませんか?謝るのはむしろホノススミ様かと存じます」

怒ったホノススミ様は、船に乗り込んで琵琶湖に漕ぎ出します。

そこで、シガノカミがここぞとばかりに、ハデツミさんから預かった満涸の玉を湖に向かって投げます。すると、湖水はみるみる干上がります。地面が露わになったので、シガノカミが追い船に乗り込みます。

ヤマクイさんホノススミ様に追いつき、手を引っ張ります。シガノカミが今度は別の玉を湖に投げ込むと、今度は乾いた湖に湖水が満ちて、ホノススミ様は溺れそうになりました。

「助けてくれ!私が悪かった。これからは弟に駒のように従うから!」と言ったのでした。

シガノカミとヤマクイさんホノススミ様を助け出し、ウカワのミヤで仲直りをしました。

さて、神社の入口に置いてある狛犬の起源はこのホノススミ様が仰った「駒(=馬)になって従う」ことが本来の由来となっています。

神社の狛犬

ホホテミ様とご兄弟のその後

さて、以上がホノススミ様ホホテミ様のエピソードとなります。

では、ニニキネ様のアシツヒメとの間に生まれた3人のお子様のその後を簡単に説明して、終わりにしたいと思います。

長男 ホノアカリ様

ニニキネ様はご自身の長男に、兄上と同じ名前を付けたので、混同しやすいのですが、ニニキネ様の兄がホノアカリ(イミナ:テルヒコ)、長男がホノアカリ(イミナ:ムメヒト)です。

長男 ホノアカリ様

ちなみに上古代で梅はムメと呼ばれていたので、梅の花にちなんでムメヒトと名付けられました。

※お二人のホノアカリ様のお名前を表にまとめました。

ニニキネ様との関係名前イミナ別名
ホノアカリテルヒコアスカヲキミ
長男ホノアカリムメヒトハラヲキミ
ムメヒトヲキミ

ホノアカリ様富士南麓ハラミノミヤで政務をとります。叔父のアスカヲキミに世継ぎが出来なかったため、ご自身の長男:クニテルさんがアスカヲキミの養子となり、ニギハヤヒを名乗ります。

このニギハヤヒさんのとなったのが、フトタマさんの孫にあたるミカシヤという方で、お二人の間に生まれたウマシマチさんの子孫が後の物部氏です。

ムメヒト様の後を継いだのは、ニギハヤヒさんの弟のタケテルさんで、その子孫がヤマトタケさんの時代のオハリムラジ(尾張連)の家系となって続きます。

ヤマトタケさん妃ミヤスヒメはこのオハリムラジの娘にあたります。

次男 ホノススミ様

次男のホノススミ様(イミナ:サクラギ)は長生きをしたため、シラヒゲカミの褒め名が与えられました。ホノススミ様の子孫:ウツヒコさんは初代スヘラギ:タケヒト様(神武天皇)に仕えて、ヤマトノクニツコに任じられます。

第十一代アマカミ ホホテミ様

さて、ニニキネ様のお眼鏡にかない、次期アマカミ(上古代の天皇)に選ばれたのは三男ホホテミ様(イミナ:ウツキネ)でした。ハデツミさんのお屋敷で出会ったことがご縁でトヨタマヒメホホテミ様の妃となります。

ホホテミ様とトヨタマヒメ

以上が、ホノススミ様ホホテミ様のエピソードとなります。

最後までお読みいただきありがとうございました!

参考図書:ホツマ辞典 池田満氏著/秘められた日本古代史ホツマツタヘ 松本善之助氏著

ホノススミ様とホホテミ様(前編)

こんにちは!今日はニニキネ様アシツヒメとの間に生まれた三つ子のお子様のお話をしたいと思います。次男のホノススミ様三男のホホテミ様のエピソードです。

また、「鯛が神様への第一等のお供え物になった由来」更に、「神社に狛犬が置かれるようになった」エピソードも盛り込まれていますので、是非お読みください。

さて、ニニキネ様の次男ホノススミ様カニノクサ(瘡の病:皮膚病の一種)を患っておられたため、治療のためタカシマ(琵琶湖西岸高島)シラヒゲの社(現:白髭神社付近)に来られていました。

白髭神社 滋賀県高島市鵜川

治療にはスセリクサ(芹の一種)が用いられたため、ホノススミ様スセリミヤ、またウカワ(鵜川)で釣りをよくしたため、ウミサチとも呼ばれていました。

お互いの弓矢と釣り道具を交換する

そこへ、北津にあるイササワケのミヤ(現:敦賀市気比神宮)から弟のホホテミ様がやってきて、このウカワはご自身のイミナ(実名)に縁のある場所なので住みたいと兄に言います。

ホノススミ様は「なんて勝手な言い分だろう」、「弟に一泡吹かせてみよう」と思いました。

ヤマサチことホホテミ様

ホホテミ様は山で狩りをすることが得意であったため、ヤマサチと呼ばれていました。ホノススミ様「お互いの釣り道具と弓矢を交換しようではないか」と提案します。

ホホテミ様「それはいい!きっと愉快なことがあるでしょう」と喜んで兄の申し出を受けました。兄は釣り針を結ぶ糸が今にも切れそうなのをそのままにして、釣り道具を弟に貸したのでした。

互いの釣り道具と弓矢を交換する

兄は慣れない弓矢を持って、山に狩りに出かけ、弟は釣り道具を持って、船を漕ぎ出しました。案の定、結果は散々で、お互いに獲物が取れないまま帰ってきました。

ホノススミ様は弟に「弓矢を返すから、釣り道具を返してくれ」と言いました。しかし、ホホテミ様は釣り針を失くしてしまい返すことが出来ません。そこで、新しい釣り針をこしらえて兄に渡すのですが、「あの釣り針でなければ嫌だ」と言って聞きません。

ウミサチことホノススミ様

切羽詰まったホホテミ様はご自身の太刀をつぶして、山盛りの釣り針を作って兄に届けました。すると兄はなおも怒って、「元の釣り針でなければ受け取れない!」と粘るのでした。落ち込んだホホテミ様は海辺にたたずみ、「どうしたらよいだろう」と頭を悩ませます。

シホツツの翁が現れる

ホホテミ様がふと海辺を見ると、ワナにかかっていました。可哀想に思ったホホテミ様は雁に巻き付いた縄をほどいてやります。すると突然、シホツツの翁が姿を現しました。

「なぜ、そのように心配されているのですか」シホツツの翁が尋ねます。ホホテミ様はことの全てを話すと、「ご心配なさいますな、この翁が一計を案じましょう」と言うのです。

翁は結び目のない堅網を、歌札に書きつけた自分のウタと共に、籠の中に入れました。そして、ワニ船(帆がついた古代の高速船を指す)に籠を乗せ、ホホテミ様も船に乗るように伝えました。

結び目のない網とは大きめの魚を取る際に用いた思われる

ハデツミさんのミヤに辿り着く

船は日本海を西南し、関門海峡から周防灘を経て、ウマシ浜(日南海岸:鵜戸神宮付近)につきました。そこには、九州全域を治めていたハデツミという方のミヤがありました。

ハデツミとは以前もご紹介した方で、九州全域を治めていたカナサキさんの孫に当たります。このハデツミさんの娘がトヨタマヒメです。

ホホテミ様は籠を船に残したまま、ハデツミさんのミヤ瑞垣まで歩きます。そして、高殿に着いた頃にはすっかり、日も暮れていました。丁度大晦日の夜だったので、お庭には篝火(かがりび)が赤々と燃えていました。

瑞垣とはミヤの周囲を囲む垣根のこと

そして、海女さんたちが初日の出を仰ごうと、庭園いっぱいにユズリ葉を敷き詰めて待っていました。

夜が白々と明けると、海女さんたちは水を入れる器を持って出てきました。海女さんたちと一緒に居たハデツミさんの娘のトヨタマヒメが井戸のつるべを汲み上げると、水に若い青年の姿が映っているではありませんか!

ホツマツタヱには胸キュンエピソードが多いのであった

ホホテミ様の姿に気づくトヨタマヒメ

驚いたトヨタマヒメは急いで高殿に戻り、両親に知らせます。それを聞いたハデツミさんは遠くから若者の姿を覗いてみます。服装から見ても、普通の身分の方ではありません「あの方はアマツカミの方であろう。なんと珍しいお客であることよ」と言って、高殿に新しい八重の畳を敷いて迎えます。

ハデツミさんがホホテミ様にここへ来た理由を尋ねると、釣り針を失くしてしまった経緯を一部始終打ち明けたのでした。

あれこれ策を思考しているうちに元旦の朝になりました。そこへ、鵜戸海岸の警備を担当していた人がやってきました。「浜辺に籠と堅網が打ち上げられていましたが、一体どなたのものでしょう」ハデツミさんが籠を覗くと、歌札が添えられた目の無い堅網を見つけました。

歌札には、こんなウタが書かれていました。

ハデカミさんがミヤに仕える多くの海女さんたちに聞いてみます。網を曳(ひ)く海女さんも、釣り糸を絡る海女さんも、この結び目の無い堅網は使えそうもありません。しかし、網を打つ海女さんは使うことができました。

お正月に鯛を食べる習わしとなったエピソード

そこで、ハデカミさんはこの海女さんと多くの海女さんをシホツツの翁の網を持たせて、投網をさせます。すると、グチという魚をくわえた大鯛がやってきました。海女さんがこのグチを覗き見ると、何と!釣り針を飲み込んでいるではありませんか!

早速、海女さんは捕らえた大鯛を生け簀に入れてハデカミさんに伝えます。

ハデカミさんはその出来事を既に夢で見て知っていました。夢の中でその大鯛は、

「ご覧のとおり私は魚なので大君(=ホホテミ様のこと)にお尽くしすることはできません。それで御奉公のつもりで釣り針を飲み込んだグチをお捧げしたいと思い参上いたしました」

「また私を大君の食料として食して頂けましたら、たいへん光栄でございます」と言ったのです。

大いに喜んだホホテミ様は次のように語られました。

ヨトヒメの名を賜るホホテミ様

「あっぱれ大鯛よ。鯛はまさに魚の君と言うべきぞ。望み通り鯛を食料として受け入れることにしよう。鱗は水に山を写したように、立派ではないか。これを機にグチとは一切かかわりを持たないことにしよう。」

そのため、神様への第一等のお供え物として鯛が捧げられるようになったのです。

大鯛を見つけた海女さんもお褒めにあずかりヨトヒメという名を賜りました。

このヨトヒメを祭った神社が佐賀県佐賀市大和町 与止日女神社とされています。「ヨ」とは「善い」「ト」は数字の「十」で、善良で完全なヒメという意味になります。最高の誉め言葉を賜るところが、アマテルカミ(天照大神)に似ておられますよね。

与止日女神社

さて、まだお話は続きますが、長くなりましたので、次回に続きます。最後までお読みいただきありがとうございました!

参考図書:ホツマ辞典 池田満氏/秘められた日本史(続)ホツマツタヘ 松本善之助著

ニニキネ様とコノハナサクヤヒメ(後編)

こんにちは!前回の「ニニキネ様とコノハナサクヤヒメ(前編)」の続きのお話になります。

突如、現れたが燃え盛る炎の中から赤子を次々と助け出し、三つ子のお子様は無事に一命を取りとめたのでした。

この様子に気づいた付近の人々が大急ぎで火を消し、やっとのことで、アシツヒメを室屋の中から助け出しました。

そして、ヒメとお子様がたを輿に乗せてサカオリノ宮まで運び、伊勢におられるニニキネ様に大至急使いを走らせて、この一大事を伝えたのでした。

使者が街道筋に当たるシロコを通ると、アシツヒメがかつて誓いを立てて植えた桜の木が見えてきました。

桜は時季外れにも関わらず、アシツヒメが三つ子をお産みになった六月初日(現在では7月15日頃に当たる)からずっと咲き続けていたのです。

驚いた使者は一連の出来事と共に、シロコの桜のこともニニキネ様にお伝えしました。

ニニキネ様の誤解が解ける

このことを聞いたニニキネ様はたちまち誤解が解け、アシツヒメの潔白を知るのでした。居ても立ってもいられないニニキネ様は急いでカモ船(櫂がついた船)に乗り、全速力でオキツ浜(現:駿河湾興津付近)に辿り着きました。

ニニキネ様の到着はサカオリノミヤで静養していたアシツヒメの耳に届きました。しかし、ヒメは一室に閉じこもったきり、ニニキネ様に会おうとはしません。

この様子を使者から聞いたニニキネ様はじっと考え込み、ウタミ(短冊のようなもの)にありのままの心をウタにして書き留めました。

そして、このウタオキツヒコさん(ソサノヲさんの孫にあたる)を勅使に立てて、アシツヒメに届けさせます。

一室に閉じこもっていたアシツヒメはそっとニニキネ様ウタを覗いてみます。そこにはこんなことが書かれていました。

ニニキネ様のウタを読むアシツヒメ

沖つ藻=ニニキネ様を指し、浜つ千鳥=アシツヒメを例えて詠んでいます。「私が疑いを晴らして手を差し伸べているのに、ヒメはまだ心を閉ざしているのか」という意味になります。

かなり上手なウタですよね。「沖つ」ニニキネ様が到着した「オキツ浜」とかけていて、浜辺に打ち寄せる海藻をご自身に、さ寝床はアシツヒメに例えています。率直かつ純粋なウタです。

即興でここまで凝ったウタを詠めるニニキネ様は相当頭が良い方だと分かりますし、駆け引きや計算が無い、純粋で素直なお人柄も伺えますよね。

さて、話を本筋に戻します。

アシツヒメの恨みは消えて

ニニキネ様ウタを読んだアシツヒメは胸につかえていた恨みが解けて、晴々とした気持ちになりました。そして、我を忘れて裸足のまま、裾野を駆け下りてオキツ浜へ向かいます。この様子はホツマツタヱに以下のように書かれています。

アシツヒメの喜びと感動が伺える一節

ニニキネ様はたいそう喜んでアシツヒメを迎え、輿を並べてサカオリノミヤに向かいます。

そして、サカオリノミヤに着いたニニキネ様は喜びいっぱいで以下のように勅(みこと)のりをしました。

ニニキネ様とアシツヒメ

先日、アワ海(琵琶湖)を北辺を通った際、三月だったが遅咲きのが見事であった。次にタカシマ(滋賀県高島郡)に差し掛かると、今度はが見事であった。そして、ウカハ(高島郡鵜川)でサルタヒコに出会った時は卯の花が盛りであった

「それぞれの花を折りかざして愛でたものだが、その花々がわが子の胞衣の模様となって現れたのは何という瑞兆であろうか。だから三人の子にはこれらの花の名前をつけることにしよう」

「第一子はホノアカリと名付け、イミナ(=生涯持ち続ける名前のこと)はムメヒトにしよう。次の子はホノススミサクラギ、末の子はヒコホホテミウツキネがいいだろう」

そして一息入れ、やさしい眼差しでアシツヒメを見やりながら、こう言いました。

「ヒメが子を産んでからシロコの桜の花が絶えない。だからヒメコノハナサクヤヒメと名付けよう」そう、実はコノハナサクヤヒメと名付けたのは夫君のニニキネ様なのでした。

そして、富士山が良く見えるこの地に宮を建てて、末永く住むことになったので、浅間神社祭神コノハナサクヤヒメになっています。また、自らの乳で三人の子を育てたため、子安神として、子安神社祭神にもなっていると思います。

シロコの桜は三重県鈴鹿市に鎮座する比佐豆知神社付近に、白子不断桜として今も残されています。桜の木の寿命は100~150年と言われているので、都度植え替えられてきたとは思いますが、伝承が今に伝わっていると思われます。

三重県鈴鹿市に鎮座する比佐豆知神社

あとがき

実はこのエピソードの更新を心待ちにしておられるお方がいました。ニニキネ様はもちろんのこと、実はアシツヒメも楽しみに待っていて下さっていたようなのです。

機会があったら書きたいと思いますが、アシツヒメには一度浅間社でお会いしています。かなりスピリチュアルな方だと思いました。(竜のエピソードもありますし)

多くの方々に本当のご自身のエピソードを知ってもらえるのが本当に嬉しいというお気持ちが伝わりました。(先日、早速お礼にも来てくださいました)

カグヤマさんタキコヒメ、それからソサノヲさんは美鈴が参拝した際はいつも優しく、慈しんで下さいます。昔のエピソードを読んで驚くこともありますが、今も参拝者の方々を優しく見守って下さっていることもお伝えしたいと思います。

ニニキネ様は他にも随所でエピソードが見られますし、本当に素敵な方なのです。

ホノアカリ様は長男であったためアマカミには即位しますが、ニニキネ様は灌漑事業により、民を生活をより豊かにしたため、祖父のアマテルカミ(天照大神)からミクサタカラを授けられます。そして、ニニキネ様のお血筋が本流となります。

ニニキネ様のエピソードはまたご紹介したいと思います。それでは、最後までお読みいただきありがとうございました!

参考図書:秘められた日本古代史:ホツマツタヘ 松本善之助 著 

ニニキネ様とコノハナサクヤヒメ(前編)

あけましておめでとうございます!本年もどうぞよろしくお願いいたします。

前回ニニキネ様のお話を書いたので、ニニキネ様奥様のアシツヒメ(一般的にはコノハナサクヤヒメの名前で知られる)のエピソードと何故コノハナサクヤヒメと呼ばれるようになったのか?について書きたいと思います。

まず、アシツヒメとは一体どなたなのか?系図を見て頂くと一番理解が早いので、ご覧ください。

アシツヒメ(コノハナサクヤヒメ)

系図を見ると、ニニキネ様アシツヒメも共にアマテルカミ(天照大神)ということが分かります。

ニニキネ様ホノコヒメのお血筋で、方やアシツヒメハヤコヒメのお血筋です。ハヤコヒメアマテルカミの弟ソサノヲさんと恋仲になり、嫉妬したハヤコヒメはソサノヲさんの婚約者候補を次々殺める罪を犯しました。

ハヤコヒメとソサノヲさん

そして、ハヤコヒメの姉:モチコヒメも同じくアマテルカミの妃であり、アマテルカミの正妃であるホノコヒメをひどく恨んだため、ハヤコヒメホノコヒメは一筋ならではいかない間柄であったということを、念頭に置いておく必要があります。

ニニキネ様アシツヒメが結ばれることで、このお二人の血が一つになるのですが、なんとも胸の痛い出来事が起きてしまいます。(正直、このエピソードを書くのは辛かった。)なので、御祭神もそういう過去があったんだという視点でお読みいただければと思います。

そして、このエピソードを広く周知したいと願っておられる方は、他でもないニニキネ様なのですよね。ご自身のことを正しく知って貰いたいと心底思っておいでなのです。

ニニキネ様、アシツヒメと結ばれる

さて、話を元に戻して、ニニキネ様サカオリノミヤ(富士山本宮浅間大社付近)に来られた際、宮を預かっていた四代目ヤマスミのカグヤマさんが娘のアシツヒメと共に、ニニキネ様をもてなし、その夜にニニキネ様アシツヒメは結ばれます。

ヤマスミさんとは瀬織津姫ホノコヒメを輩出した駿河の名家オオヤマスミ四代目で、安房神社の祭神であるフトタマさんと共にニニキネ様兄ホノアカリ様に仕えていました。

ニニキネ様の兄ホノアカリ様:アスカヲキミとも呼ばれる

ちなみに、神奈川県伊勢原市に鎮座する大山阿夫利神社御祭神:大山祇大神とは、このヤマスミ(カグヤマ)さんで間違いないと思います。美鈴はご本人にお会いしています。

大山阿夫利神社

そして、カグヤマさんの奥様タキコヒメとはアマテルカミの娘であり、神奈川県藤沢市に鎮座する江島神社辺津宮の御祭神です。

なお、アシツヒメ富士山本宮浅間大社主祭神になっていますので、このヤマスミファミリーは仲良く近隣の神社にお祀りされているということですね。

富士山本宮浅間大社

さて、ニニキネ様と結ばれたアシツヒメはたった一度の逢瀬で懐妊します。

暫くの後、今度はイズサキ(伊豆半島付近)の行宮に来られたニニキネ様アシツヒメの懐妊を喜び、伊勢のアマテルカミに報告しようと言って、アシツヒメを連れて伊勢に向かう準備をするのでした。

一方で、アシツヒメの母タキコヒメ長女のイワナガヒメニニキネ様にめあわせたいと思っていました。そこで、ニニキネ様アシツヒメ以上に手塩にかけた娘がいると伝えます。

ニニキネ様イワナガヒメを召すのですが、お気に召さなかったニニキネ様タキコヒメの申し出を断ります。そのことを知ったカグヤマさんは怒り、タキコヒメイワナガヒメと共に追い返そうとします。

傷心の二人はアシツヒメに怒りの矛先を向け、ニニキネ様のお付きの女官を通して「アシツヒメが身ごもったのは他に男性がいたからだ」と耳打ちします。

その言葉を信じたニニキネ様は伊勢に向かう途中のシロコ(三重県鈴鹿市白子)の宿までにアシツヒメと共に来ていたのですが、アシツヒメを残したまま、伊勢に向かってしまいます。

驚いたアシツヒメは身重の体で松坂まで歩くのですが、お付きの者に止められて、シロコまで引き返します。

アシツヒメはその昔、曾祖父のサクラウチホノコヒメの父)が宮中に桜の木を植えて、花の咲き具合で男女の仲が正しく行われているか占った故事を思い出して、一本の桜の木を植えます。

桜の木を植えるアシツヒメ

アシツヒメは「私がこんな目に遭うのは誰からの恨みを買ったからに違いない。桜よ、どうがこの恥を濯いでおくれ」

そして、「私のお腹の子がアダ種ならばしぼみ、マサ種であるなら産む時に咲いておくれ」といって、三島の実家(三島大社付近)に戻ります。

三つ子の男の子を出産

月満ちて、六月初日三つ子の男の子を産みました。不思議なことに、赤子の胞衣(胎児を包む膜)の模様が、長男は梅、次男は桜、三男は卯の花に見えました。

不思議に思ったアシツヒメは伊勢におられるニニキネ様に知らせましたが、何の返事も貰えません。依然として、ヒメに対する疑いは晴れていなかったのです。

返事が貰えないことで、アシツヒメは更に悲しみ、富士の裾野に出口のない室屋を造らせて、周囲を柴の垣根で囲い、三人の子供と室屋の中に入って誓いを立てました。

「この三人の子がアダ種ならば、子と一緒に私は焼け死ぬでしょう」と言って、室屋に火を付けます。

たちまち火の海になった室屋から、熱さに耐えかねた赤子はもがき這い出そうとします。

その時、遠くの峰でこの様子をじっと見ていたが急に舞い降りてきて、そして水を吐き出し、一人づつ子を導き助け出したのでした。

長くなりましたので、前編はこの辺で終わりにしたいと思います。続きは後編でご紹介します。

最後までお読みいただきありがとうございました!

参考図書:「秘められた日本古代史 ホツマツタヘ」

ニニキネ様を探して:小田原鴨宮 賀茂神社

こんにちは!今日はニニキネ様を探してというタイトルで、ニニキネ様を訪ねたお話をしたいと思います。

第十代アマカミ ニニキネ様

以前にニニキネ様(一般的にはニニギノミコトと呼ばれる)が鳳凰雲として瀧口明神社に現れたと書きましたが、実際に対面でお会いした訳ではありませんでした。

ニニキネ様をお祀りする神社も幾つか訪問していますが、やはりお会いすることが出来ませんでした。

美鈴はこの方にお会いしたいなぁ~と思うとまず、御祭神テレパシーを送ります。

そうすると、御祭神美鈴のテレパシーをキャッチして、「〇〇神社にいる」とか「●●神社で会える」とか教えてくれます。(メールの返信のような感じです)そしてタイミングが良い時に訪問するとお会いできるという流れになります。(あくまで美鈴の場合です)

「ニニキネ様にお会いしたいです!」というテレパシーをニニキネ様に送ってはいたものの、ニニキネ様からのテレパシーはキャッチ出来ませんでした。何故だろう???と思っていました。

改めてニニキネ様を祀る神社を神奈川県で探してみると、驚くほど数が少ないし、どの神社をみてもいまいちピンときません。「あっ!ここだ」という神社がなかなか見つかりませんでした。

そこで今度は祭神名を「別雷=ワケイカツチ」で探してみることにしました。何故かというと、別雷とはニニキネ様別名だからです。ここで注意しないといけないのが、別雷(ワケイカツチ)とは雷の神ではないということです。

ニニキネ様は雷の被害が多かった京都盆地の農業生産を安定させるために、「火=カグツチ」「水=ミツハメ」に分けて祭り、自然現象をコントロールしたため、アマテルカミ(天照大神)から「ワケイカツチ」の称号が与えられました。

つまり、「別雷」とは、雷を水と火に分けて祭った神という意味であって、雷(=イカツチ)神ではないということですね。

また、古代の人々は自然神を崇拝の対象ではなく、人が自然の力を活用するために祭った言わば、人間のしもべとして見ていたため、雷の神としてしまうと、ニニキネ様のことではなくなってしまいます。

雷を火と水に分けて祭ったニニキネ様

前置きが長くなりましたが、改めて「別雷」で探してみると、こじんまりした社ではありますが、一箇所気になる神社を見つけました。神奈川県小田原市鴨宮に鎮座する賀茂神社です。御祭神天照大神別雷之命となっており、ここは期待できそうな気がします。

そもそも、「賀茂」という名称なのですが、京都市北部及び上、下カモノヤシロ両社「カモ」と呼ばれていたため、後世に賀茂の字があてられたと考えられます。

また、ニニキネ様は政り事の功績が大きかったため、上(かみ)下(しも)を恵む意味から「カモ」という讃え名もあったのです。

しかも場所が小田原です。

ニニキネ様のおられたハラアサマミヤ富士南麓周辺)から近いですし、何と言っても静岡~神奈川の海岸沿いヒタカミ(東北)、ニハリノミヤ(筑波山付近)へ行くための重要な交通の要所であったため、もちろんニニキネ様は足を運ばれたことでしょう。

参拝に良い日を選んで、小田原まで足を運ぶことにしました。家を出てから、所々でニニキネ様からのサインを受け取ったので、なんとなくお会い出来そうな気がします。

賀茂神社はJR東海道線鴨宮駅から徒歩で10分のところにあります。社に向かって歩いていると、「うわーこの感覚!!ニニキネ様が来られている~!」と確信しました!

加茂神社:約900年前に創建

加茂神社に着くと、やっぱり!本殿の手前にニニキネ様がおられました。嬉しいー!ずっとお会いしたい方だったので、とても感激しました。

しかも、加茂神社は普段から参拝者もまばららしく、人払いどころか他には誰もいません。(小さな社のメリット→参拝者が少ない、もしくはいないので、御祭神とゆっくりお話しができること)

もしかしたら、昔どこかの神社でお会いしたかもしれませんが、丁寧に自己紹介と挨拶をし、灌漑事業で国を豊かにして下さったお礼をお伝えします。

すると、優しくサーとお祓いをしてくださいます。ニニキネ様はなんてお優しい方なんだろう!」と感激してしまいました。

とにかく優しいニニキネ様

美鈴が色々、お話ししている間も静かにお話を聞いて下さいました。ニニキネ様が美鈴に話しかけることはありませんでしたが、幾つか質問には答えて頂きました。ニニキネ様はお忙しい方のようで、お話が終わるとすぐにその場を離れました。(常駐している感じではありませんでした)

雰囲気はやはりアマテルカミ(天照大神)のお孫さんだけあって、とても良く似ておられます。血縁の不思議さといいますか、ちゃんとアマテルカミの優れた点は受け継いでおられているんですよね。

短時間だったので、ニニキネ様の性格まで読み取るのが難しかったのですが、とても謙虚であるし、懐が広い感じがしました。

ニニキネ様は何もない所から灌漑事業を起こして、爆発的に国を豊かにされた方です。新規事業を始める社長さんとか経営者の方に是非お参りして頂きたい方だと思いました。

今日はこの辺りでおしまいにします。最後までお読みいただきありがとうございました!

アマテルカミの詔~指導者・中間指導者・民を鳥になぞらえる~ 

こんにちは!今日はアマテルカミ(天照大神)が皇孫ニニキネ様の即位の際に出されたミコトノリの一部から、キミ(指導者・アマカミ)・トミ(臣・中間指導層)・タミ(民)一羽の鳥に見立てた内容がとても素晴らしいのでご紹介します。(全文ではないのでご了承ください。)

また、アマテルカミ常に民を慈しむ気持ちを持っておられたことも分かる内容ですので、是非お読みください。

その前に、上古代におけるキミ(指導者・アマカミ)・トミ(臣・中間指導層)・タミ(民)について簡単に説明します。

上古代ではキミ・トミ・タミの立場が明確にされていた

キミ・トミ・タミの区別が出来たのはいつ?

キミ(君)・トミ(臣)・タミ(民)の区別が出来たのは、第三代アマカミトヨクンヌ様の時代とされています。トヨクンヌ様は天から三つの術を分け与えられたので、キミ・トミ・タミが出来たとホツマツタヱには書かれています。

キミの語源

「キミ」とは指導者のことですが、第4代アマカミの「ウビチニ・スビチニ様」が語源となっているらしいです。つまり、ウビチニ様=男「東」に座し、スビチニ様=女「西」に座すことから、キ=東、ミ=西は実を結ぶ方角であるため、「キミ」と呼ばれました。

余談ですが、ホツマツタヱ東西南北は、東=キ、西=ツ、中央=ヲ、南=サ、北=ネと表現していました。つまりネノクニといえば、ネ=北なので、北陸地方のクニという意味になります。

東西ならば本来「キツ」なのですが、実を結ぶ意味の「ミ」を用いたため、「キミ」となったようです。

キミ・トミの役割

では次に、キミトミの役割について見ていきたいと思います。

キミ」=指導者、アマカミ「トミ」=中間指導者層ヲヲヤケ(=Public)の立場を重視して教育指導を行い、トミタミ(=一般国民)に対して教育指導を行うのが主務とされていました。

第八代アマカミアマテルカミトミの役割について述べるミコトノリを池田満氏の著書「ホツマツタヱを読み解く」に分かりやすい注釈が書かれていますので、参考にしながら見ていきたいと思います。

トミたちよ、日常の仕事として人々への指導教育を飽きることなく行ってください。

それはトノヲシテの理念に則って、キミが国民の全てを慈しみ恵もうとする意志に沿うものだからです。

基本として、トミは教える立場にあり、タミは教わる立場にあります。

このことから諫言すると、教育指導を行わないトミは失格であり、教わろうとしないタミも困った問題となります。

何をどうすればよいのか、迷った時には原理原則に立ち返ってみることが大切です。(中略)

トミには人々への指導・教導に日々の務めがあり、タミには農本経済の主力の農耕に力を注げるようにしてあげて下さい。

そして、手工業に従事する人も、商業に働く人々も共に大切な国のタカラです。

これらの人々が存分に働けるように助力をして下さい。

それは、目先の利にだけ捉われずに、トノヲシテの精神に則ってヲヲヤケを立てることがことのほか重要なのです。(ホツマツタヱ 17アヤ-13)

要するにヲヲヤケを立てるとは、自分の利益を考えずに、民への利益、全体の利益を優先することであり、その意識がぶれないように常にトノヲシテを重視していたということですね。

アマテルカミのミコトノリ

さて、話を本筋に戻して、アマテルカミキミ・トミ・タミを一羽の鳥になぞらえたミコトノリを見ていきましょう。この詔は第十代アマカミニニキネ様が即位された時にアマテルカミが出されたミコトノリです。(注釈は松本善之助氏著「秘められた古代日本史ホツマツタヘ」参考)

ホツマツタヱ 24アヤ-4
国がうまくゆくには、キミとトミとタミとの心がひとつになることです。

仮に、日の光を体一杯湛えた鳥が居たとします。その胴体をタミに見立てます。

首はキミです。カガミとツルギの両大臣は左右の羽、足はモノノベです。

キミ・トミ・タミを鳥の体に見立てる
この各々がバラバラに動いたのでは、鳥は到底満足には飛べないでしょう。

だから、心ひとつになるのは、何にもまして大事なことです。

カガミヲミがしっかりせず、その子孫が滅んでしまえば、タミの心は離れるに決まっています。

そうなれば、キミは御位につくことができず、アメナルミチの大理想を実現できなくなるのは

火を見るよりも明らかです。

一方、ツルギヲミがしゃんとせず、その末裔がヨタヨタしていては、輩下のモノノベは仲間割れをし、

世を奪われる羽目にあうのは必定です。カガミのヲミの役目は、穀物を背負って、

営々として働くタミの日常がうまくゆくような仕組みを作り、心を配ることです。

ツルギのヲミの役目は、不心得者を罰し、モノノベの力を盛り立てることです。

このようにタカラモノをミクサに分けて授けるのは、長くこの国が一体であるように願うからに他なりません。

いかがでしたでしょうか?いつもながら愛に満ち溢れたミコトノリですよね?それでいて、オブラートに包まずにちゃんと言うべきことは言うし、伝えるべきことは伝えるアマテルカミの芯の強さを感じます。

そもそも、鳥は上古代ではとても神聖な生き物でした。鳥とは「ト」=「トノヲシテ」「リ」=「有」を意味し、日本国の象徴とするモノザネ(=目に見えないものを見えるものに表徴する古代独特の言葉を指す)としていたからです。

このミコトノリを読むと、トミの役割は民が上手く働けるように仕組みづくりをする責任があることが分かります。また、アマテルカミが民に気を配っておられたことも伺えます。

そして、アメナルミチ精神から常にぶれないように、ずれないように心を配っておいでだったことが分かりますよね。これは何も上古代の話に限らず、現代を生きる私たちにも大切なことを教えて下さっていると思うのです。

中間指導者層の役割とは決して民から搾取することではなく、愛と慈しみを持って民を教え、教導する責任があったことは重ねて強調しておきたいと思います。

今日はこの辺で終わりにしたいと思います。最後までお読みいただきありがとうございました!また、アマテルカミの素晴らしいミコトノリを今後も紹介したいと思います。

アマテルカミの詔 ~ウガヤフキアハセズ様の即位~

こんにちは!今日は前回もご紹介したアマテルカミ(天照大神)ミコトノリを全文でご紹介したいと思います。前回、ミコトノリの全文をご紹介できなかったので、今回は全文をご紹介したいと思います。

アマテルカミは嫡嗣のオシホミミ様お孫様のニニキネ様、それから、玄孫のウガヤフキアハセズ様の即位のミコトノリを出されています。

いずれも感動的でお読みいただくと、アマテルカミの人となりが理解できますし、禍々しいものも秒で晴れると思いますので、是非お読みいただきたいと思います。

ミコトノリの注釈は松本善之助氏の文章を参考にしています。長文につき、幾つかに区切ってご紹介します。

ホツマツタヱ 27アヤ16頁
キアト(日本古暦)年の夏、にウガヤフキアハセズ様の即位に際し、伊勢におられるアマテルカミに報告したので、アマテルカミが詔を出された。

即位の大事を無事終えたのは良かった。本当に良かった。私は安堵しました。トガクシ神に命じ、近江のタガの宮を作り変えて、新たな都を開いたのは大変結構でした。

タガにて輝かしい実績を残されたイサナキ・イサナミ両大神の御稜威にあずかることができるでしょう。

私は昔、高貴な文書によって天の窮理を得ることができました。これは「御祖の道」といっても良いでしょう。

汝に今、「御祖ヲ君」という名を授けようと思います。御祖の神イサナギ・イサナミ両神のようにあってほしいと心から願うからです。

おお「御祖天君」よ。国民の心をよく聴くがよい。可愛いわが子の心の隅々を知る親のように、国民の細かい動きにも敏感であって欲しいものです。

この場合に必要なのは、へりくだる心であり、同時にやわらぎの心も失ってはなりません。あのどうしようもなく狂暴なハタレに対してさえ、基本的にはこの態度で接したのでした。

このように心掛けてクニを治めるならば、役人もおのずからアメナル道を慕うようになるでしょう。

何度でも云うが、温かい心で民を恵む気持ちを怠ってはなりません。

この具体的方法は沢山残されている神々のヲシデの中に残されています。

ヲシデとは文字によって書かれた温かい心の贈りものです。しかし文書が多すぎて要点が攫み切れなくなっているかも知れません。

そんな時には、ヨコベとツウヂにもののタテ・ヨコを調べさせ、整えさせて、闇路を照らすようにしなさい。

カスガを左のトミに、コモリを右のトミに任命するがよい。両神ともかねてからの経験豊かな信頼に値する神々です。

カスガとコモリの力を得て、アメナルミチの天霊を悟るなら、日は月になり、月は年と変わり、年が何度やってきても、

天つ日嗣の栄えることは極まりありません。そうです。絶対に極まりないのです。
アマテルカミ

いかがでしたでしょうか?

美鈴はこの分を読んで、本当に感動したし、涙もボロボロこぼれました。このミコトノリから、アマテルカミがかなり精神性の高い方であったことが伺えます。

叱るでもなく、説教でもなく、温かい心で相手を敬いながら、なおかつ相手を優しく教え諭すことは、決して簡単ではありません。

アマテルカミはそれができる方だったのでしょう。

ここで特筆しておきたいのは、名だたる聖人君子はだいたい紀元前700~500年頃の方ですが、池田満氏の著書によるとアマテルカミが生きておられた時代は、紀元前1.000年頃の方ではないかと推定されています。

つまり、そんな太古の昔から日本には素晴らしい偉人がおられたということなのです。そして、アマテルカミオシホミミ様ニニキネ様即位の際も詔を出されていますが、一貫してアメナルミチの(民に恵みを齎す)精神がぶれていないということです。

数年後は言っていることが違うなんてことはないのでした。

また、別の機会にアマテルカミの素晴らしいミコトノリをご紹介したいと思います。皆様、良い一日をお過ごしください!