縄文時代に存在した結婚の制度

こんにちは、今日は縄文時代に既に確立した結婚の制度について書いてみたいと思います。結婚の起源は諸説ありますが、ホツマツタヱを読むと、結婚の制度は既に縄文時代後期~弥生時代初期には確立していたようです。

それまでは、多人数郡婚だった結婚制度が稲作の普及に伴い、一夫一婦制度に変わっていきました。ヲシテ(古代文字)文献によると、四代アマカミ ウビチニ・スビチニ様トツギ(結婚)の儀式を執り行ったと書かれています。

ウビチニ様・スビチニ様

四代アマカミ ウビチニ・スビチニ様とはアマテルカミより更に遡った時代に存在されたアマカミ(上古代の天皇)です。トツギを行った場所は、福井県武生市と南条町にまたがる日野山の麓に鎮座する日野神社付近とされています。

福井県 水田の風景が美しい日野山

雛祭りの起源は縄文時代にさかのぼる

トツギの儀式が桃の花が咲く旧暦三月三日であったため、雛祭りの起源となりました。雛祭りは中国から伝わったもの、平安時代の風習など諸説ありますが、ホツマツタヱを読むと、実は遥か昔、神話の時代とされたウチビチ・スビチニ様が起源であったことが分かります。

ウビチニ・スビチニ様とは?

ウビチニ・スビチニ様は第三代アマカミ トヨクンヌ様の後を継いだアマカミです。トヨクンヌ様との直接的な関係は不明ですが、トノミコト、トヨクンヌ様と縁が深い方ではないかと個人的に思っています。

トノミコトは富士山南麓に宮を構えていたので、ウビチニ・スビチニ様もその付近におられたとは思いますが、結婚の儀式は福井県の日野山麓で行われています。

池田満氏著書によると、日野山はひな鳥を彷彿させる形をしており、ひな鳥の象徴としてこの地を選んだのではないかと記載されています。

実際にこの日野山付近は初代クニトコタチの本拠地はヲウミ(琵琶湖付近)からさほど遠くありません。歴代のアマカミはクニトコタチを慕って頻繁にヲウミを訪れていたと思われますので、日野山のことも良くご存じだったのではないでしょうか?

そのため、ひな鳥を彷彿させる日野山の麓で結婚の儀式を行うために、日野山へ行幸されたのではないかと想像しています。

桃の下で儀式を行ったことから、ウビチニ・スビチニ様はモモヒナギ・モモヒナミと呼ばれました。

日本酒の起源も縄文時代

日本酒がつくられた起源にも諸説ありますが、実はウビチニ・スビチニ様の時代から日本酒が作られるようになりました。ある日、スビチニ様は竹株に集まった雀に気が付きました。雀に近寄ると何やら良い香りがします。それは、雀が竹株に入れたお米が発酵した香りでした。

この発見がきっかで酒が生まれました。この記述はミカサフミのニアヤ(アヤ=章)に記載があります。ミカサフミとはホツマツタヱとともに、景行天皇に捧げられた書物です。

なぜ、ホツマツタヱとミカサフミが景行天皇に捧げられたかというと、ヤマトタケさんは亡くなる前に日本国のアメノミチを子々孫々に書き残したいという遺言を残されました。

その御意思を継いで、ヤマトタケさんの御父上の景行天皇はみずからカグミハタという書物を残しました。そしてこの書物に習って、オオタタネコさんがホツマツタヱを、オホカシマさんがミカサフミ景行天皇に献上されたのです。

ミカサフミアマノコヤネ(藤原氏の先祖)さんの子孫にあたるオホカシマさんが同家に伝わる家伝をまとめて書き上げた書物なのです。

ミカサフミ ニアヤ

スビチニ様の時代にできたお酒は白酒でしたが、清酒はソサノヲさんがオロチを倒す際につくったヤシホリが起源となっています。ヤシホリは酒を水で仕込む代わりに、酒で酒を仕込む工程を八回繰り返して作られます。

古代史ホツマツタヱの旅 第4巻 いときょう著参照)

三々九度の起源も縄文時代

ミカサフミのニアヤをご覧いただくと、ここのくみという下りがあるのにお気づきでしょうか?これは三々九度のことです。三々九度とは神前で新郎・新婦が酌み交わすお酒のことです。

日本で結婚の制度が確立したのは比較的近代と思っていたので、実は縄文時代まで遡れるのは本当に驚きですね!

現代の三々九度はどのように行われている?

それでは現代の三々九度はどのように行われているのでしょうか?参考までに説明します。現代の三々九度は一般的に以下の手順で行われています。

  • ①巫女から神酒を注いでもらう
  • ②神酒を三回に分けて飲む
  • ①、②の手順を繰り返す。

お酒を飲む順番は以下の通りですが、簡易手順もあります。

  • 一献目では新郎→新婦→新郎
  • 二献目を新婦→新郎→新婦
  • 三献目を新郎→新婦→新郎

最後に

今回は結婚の儀式は縄文時代にさかのぼれることを説明しました。同時に酒造りの歴史や、雛祭りの期限まで辿れることに改めて驚きました。稲作の普及に伴って整った結婚の制度ですが、アマテルカミ(天照大神)よりも更に古い時代に確立していたことが分かりました。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

当ブログの参考図書:

  • 池田満氏著書 ホツマ辞典
  • 池田満氏著書 『ホツマツタヱを読み解く』
  • いときょう氏著書 古代史ホツマツタヱの旅
  • 松本善之助氏著書 秘められた日本古代史 ホツマツタヱ

富士山に存在した宮

こんにちは!日本人の心の故郷富士山。そんな富士山に歴史から忘れ去られた宮があったことはご存じでしょうか?

遠い昔に富士王朝が存在したとか、忘れ去られた宮があったなど、諸説存在する富士山周辺の宮の謎について、ホツマツタヱの観点から解説したいと思います。

富士山南麓は古来より重要な拠点だった

富士山南麓の宮は存在したのか?

ホツマツタヱでは、富士山南麓に宮が存在したと書かれています。では一体誰がその宮を建てたのでしょうか?

日本(当初はトコヨクニと呼ばれた)を建国をされた初代クニトコタチにはトホカミヱヒタメの8人の御子がいました。8人の御子はそれぞれ、トノミコトホノミコトと呼ばれました。

初代クニトコタチの後を継いだのがヱノミコトで、クニトコタチの拠点琵琶湖湖岸にて、二代目アマカミになりました。

弟のトノミコト富士山の南麓に派遣され、兄のヱノミコトの後を継いでアマカミの位につきます。このヱノミコトとトノミコトを合わせて、クニサツチと呼ばれました。

トノミコトは桑の葉を常食として長命を保ちました。後に富士山南麓に住まわれたアマテルカミ(天照大神)も富士山に生えていたチヨミ草を常食し、長生きされました。

このチヨミ草は不老不死の薬として秦の始皇帝の耳に入り、秦国より派遣された徐福がこの不老不死の薬を求めて、日本に渡来したという説があります。しかしその頃には噴火の影響で既にチヨミ草は無かったようです。

富士山南麓の宮の名称

富士山南麓にあった宮は時代によって様々な呼び名がありました。トノミコトが住まわれた当時は、トシタミヤと呼ばれました。時代は下り七代アマカミ、イサナギ・イザナギは富士山の行宮でアマテルカミを孕んだため、ハラミノミヤと呼ばれました。

アマテルカミはヒタカミ(東北)にて留学生活を終えた後、ハラミノミヤに新宮を建てて、最初の政を行いました。

さらに時代は下り、アマテルカミの孫のニニキネが宮を再築して、ハラアサマミヤ(ハラミヤ)と呼ばれました。

富士山南麓に住まわれたアマカミ宮の呼び名
トノミコトトシタミヤ
イサナギ・イサナミハラミノミヤ
アマテルカミハラミノミヤ
ニニキネハラアサマミヤ

富士山南麓に憧れを抱いた方

後世、この富士山南麓に強い憧れを抱く方が現れます。それがヤマトタケ(日本武尊)さんです。ヤマトタケさんは時代が下って、景行天皇の二番目の皇子として生まれます。

国を豊かにし、長寿を保ったトノミコト・アマテルカミに深い尊敬の念を抱いたのです。

しかし、ヤマトタケさんは志半ばで早世してしまいます。妻のミヤヅヒメニニキネの長男:ムメヒトの子孫)はヤマトタケさんのミタマを入れた輿と共に、ハラミノミヤへ向かいます。

ヤマトタケさんがソサノヲさんを慕った理由

余談ですが、ヤマトタケさんはソサノヲさんと境遇が似てたため、ご自身をソサノヲさんの生まれ変わりと信じていました。二人ともアマカミ・スヘラギの御子ですし、そして弟の立場です。

自身の近親者がハタレ(朝廷に逆らうもの)になってしまい、縁故の人々を成敗しなくてはならない境遇に陥りました。敵陣の忍び込んで、ハタレの首謀者を打つのです。

ヤマトタケさんは無事に反乱を収めたことを感謝して、ソサノヲさんを祭る社をいくつも建てます。

ヤマトタケさんはソサノヲさんと雰囲気が似ていますが、別人です。そして過去にちゃんと実在した方です。(ヤマトタケさんとお会いしたエピソードも書く予定です。)

景行天皇の皇子として生まれるヤマトタケさん

富士山という名称はいつ頃ついたのか?

古代には富士山は様々な呼び名がありました。ハラミヤマ・オオヒヤマ・ヒノヤマ・カクヤマ・ハラヤマ・オオヤマ・ナカミネなどの名でヲシテ文献に登場します。

次代は下り、七代スヘラギ(アマカミの名称はスヘラギに変わります)フトニノキミ(孝霊天皇)は富士山に行幸します。その際に田子の浦の住人が藤の花をフトニノキミに献上します。

これにより、フジノヤマという新名がつけられて、今の富士山の名前の由来になっています。

富士の宮があった場所はどこ?

ハラミノミヤがあったところは、富士山本宮浅間神社(富士宮市大宮町周辺)のあたりが有力候補とされています。今回は古代のアマカミが愛した場所、そしてアマテルカミが誕生された地、富士山の宮の秘密に迫りました!

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

参考図書:ホツマ辞典(池田満著)

安房神社のフトタマさん

こんにちは!今日は千葉県館山市に鎮座する安房神社について書きたいと思います。安房神社といえば日本三大金運神社として有名ですが、さて、その御祭神:フトタマさんについて綴っていきます。

白い鳥居が印象的な安房神社

日本三大金運神社

安房神社と言えば、日本三大金運神社の一つと言われ、年始には雑誌の特集が組まれている神社です。私はなぜ安房神社を参拝すると金運が上がるのか興味がありました。

突然訪れた参拝の契機

安房神社に行ってみたかったものの、「館山は遠いなぁ」と漠然と思い、なかなか参拝が実現しませんでした。ふとある時夫が「房総半島に旅行に行こう!」と言ったのです。

「安房神社に行きたい」と夫に言っていなかったので、びっくりしました。これは御祭神に呼ばれたのかと思い、早速御祭神について調べることにしました。

安房神社の御祭神とは?

神社の縁起を見ると、御祭神はあめのふとたまのみこと(天太玉命)と あめのひりとめのみこと(天比理刀咩命)とあります。

安房神社の始まりは2,670年前ということですから、紀元前640年頃でしょうか。神武天皇の時代が紀元前660年と言われていますので、誤差はあるとしても、紀元前600年あたりの古社ということになります。

神社の縁起を見ると、神武天皇の勅命により四国・阿波徳島のアメノトミノミコト(天富命)が忌部一族を率いて、房総南端の地を開拓します。

無事に開拓を終えた、アメノトミノミコトさんが祖父のアメノフトタマノミコトさんに感謝してお祀りしたのが由来と書いてあります。

ホツマツタヱのフトタマさん

御祭神のアメノフトタマノミコト(天太玉命)は、ホツマツタヱではフトタマさんという方です。フトタマさんは第七代タカミムスビ:タカギさんの第三子です。

ここで、フトタマさんのご実家、タカミムスビ家について説明します。(池田満氏のホツマ辞典参照)

タカミムスビとは?

日本を建国した初代クニトコタチにはトホカミヱヒタメという8人の御子がいました。それぞれをトノミコト、ホノミコトのように呼ばれていました。

この8人の御子が、住居の立て方や食料にふさわしい樹木を人々に教えるために、日本の各地に派遣されます。

東北地方(ヒタカミ)に派遣されたのが、タノミコトでその子孫がタカミムスビを代々名乗って栄えます。このタカミムスビ家からイサナギ・イサナミが誕生し、夫婦となって第七代アマカミ(古代の天皇)に即位します。

イサナギ、イサナミの長男であるアマテルカミ第八代アマカミとなります。

フトタマさんは第七代タカミムスビ:フリマロさんの子供で、当時皇太子であったホノアカリさん(アマテルカミの孫)に左の臣として仕えます。つまりタカミムスビ家とはアマカミを輩出し、アマカミをお支えする名門の家柄なのです。

フトタマさんの主人ホノアカリさん

フトタマさんの主人であるホノアカリさんとは、アマテルカミとセオリツヒメ:ホノコさんとの間に生まれたオシホミミさんの長子で、弟は天孫降臨で有名なニニキネさんです。

ホノアカリさんはヒタカミ(東北)におられたのですが、ナカクニ(近畿地方)の統治を任され、奈良のイカルガに宮を建てます。しかし、宮遷しの翌日にシラハニ山にカラスが飛ぶのを見て吉兆とし、アスカへの宮遷しを決めます。

しかし、朝廷の重臣であったアマノコヤネさんとクシヒコさん(二代目オオモノヌシ)が反対します。度重なる宮遷しは国の乱れに繋がると考えたのです。ですが、フトタマさんは反対意見を押し切ってアスカへの宮遷しを決定します。

ホノアカリさんの元を去ったアマノコヤネさんとクシヒコさんはニニキネさんに従います。本来であれば民の幸せを考えるのが朝廷なので、なぜフトタマさんは宮遷しに賛成したのでしょうか?疑問が残ります。

フトタマさんの子孫は後々物部氏、忌部氏として、朝廷の祭祀を司る家系として続いていきます。

参拝前の眠気

さて、安房神社へ向かう車の中でフトタマさんのことを考えながら、急に眠りこけてしまいました。(美鈴はこれを一之宮現象と呼んでいます)

目が覚めると、白い大きな鳥居が目の前に現れ、安房神社に到着しました。

本殿のフトタマさん

早速本殿に向かいました。日本三大金運神社とはいっても、キラキラした派手な神社ではありません。目の前に現れた本殿を見て、『うわっ、伊勢神宮だ』と思いました。

本殿は伊勢神宮と同じ神明造

伊勢神宮そのものという雰囲気なのです。本殿を見ていると『国家』、『朝廷』、『公=(Public)』という言葉が聞こえてきます。

実は伊勢神宮は訪れたことがなく、写真でしか見たことがないのですが、伊勢神宮の気を帯びた神社なのです。本殿にて祝詞を奏上し、自己紹介をすると、フトタマさんが歓迎して下さっているのが伝わります。

フトタマさんは『忠・誠・心』の一言に尽きます。朝廷を重んじ、主君に忠実な方なのです。主人のホノアカリさんに異を唱えなかったのは、フトタマさんの忠誠心ゆえでしょう。

本来ならば、国が乱れる原因となる宮遷しはしない方が賢明です。ただ、ホノアカリさんの立場からすれば自分の意見に忠実に従ってくれるフトタマさんの存在は心強かったでしょう。

ホノアカリさんのご出身は東北(ヒタカミ)ですし、フトタマさんのご実家もヒタカミのタカミムスビ家です。ヒタカミから遠い近畿の地でフトタマさんはホノアカリさんを支えていたのです。

フトタマさんにお礼を伝えて安房神社を後にしました。

安房神社の御利益

安房神社の御利益は交通安全、厄除け、開運、家内安全、商売繁盛です。フトタマさん御自身がアマカミ(古代の天皇)の重臣ですので、やはりお仕事関係で御利益がありそうです。

参拝後に起きた変化

安房神社の参拝後に強烈な毒出しが起こりました。参拝の翌日は倦怠感が続きましたが、房総半島で美味しいお魚を食べたせいか、参拝後は体がとても元気になりました。

安房神社の金運アップについて美鈴の見解

さて、金運アップについてですが、皆さんは神社を参拝する際に、御祈祷代、お賽銭、御朱印代、授与品、お守りの購入などで、ある程度お金を支払うのではないでしょうか?

神社で支払うお金は世のため、人のために役立つお金になりますので、回りまわって自分に返ってくることがあります。

金銭で戻る場合もあるでしょうし、ポイントや金券、仕事が見つかる、人から物をもらう、健康になるなど別の形の場合もあります。安房神社を参拝した多くの方が、その恩恵にあずかったため、金運神社として評判になったのではないでしょうか?

国を重んじ、忠誠心の篤いフトタマさんに会える安房神社に、機会がありましたら是非ご参拝ください!

最後までお読みいただき、ありがとうございました!

参考図書:ホツマ辞典:池田満著

ホノコさん(瀬織津姫)の癒しが感じられる:小野神社(多摩市)

こんにちは!今回は東京都は多摩市に鎮座する武蔵国一之宮小野神社について書きたいと思います。

朱塗りの社が女性らしい

最寄り駅は京王線の聖蹟桜ヶ丘ですが、実は父がこの付近でお店を経営していました。幼少期から馴染み深い土地ですが、小野神社の存在を知ったのはつい最近のことでした。

ホノコさん(瀬織津姫の名で知られる)を祭る神社がないか探していたところ、こちらの神社を見つけました。

小野神社御祭神

ホームページを見ると、主祭神は天ノ下春命瀬織津姫命と書いてあります。天ノ下春命とはホツマツタヱで言うところの、オモイカネさん(アマテルカミの左の臣)ワカヒメさん(アマテルカミの姉)との間に生まれたシタハルさんのことです。

では、瀬織津姫命とは、ホツマツタヱではどのように書かれているのでしょうか?

瀬織津姫命とは

瀬織津姫命とはホツマツタヱでは、アマテルカミ(天照大神)正姤です。セオリツヒメという名とムカツヒメ(アマテルカミと一対一で向かい合う方の意)の名があります。

あめのしずくトップ画像はホノコさんなのです

その名の通り、アマテルカミが最も愛したお妃で、アマカミ(古代の天皇の呼び名)の右腕となります。駿河一帯をおさめていた名家:オオヤマスミ家のご出身で、生まれは静岡県の三島大社あたりとされています。

ソサノヲさんの暴挙がきっかけで、ホノコさんの妹のハナコさんが亡くなってしまいます。ソサノヲさんは死刑を言い渡されますが、ホノコさんの除名嘆願によりソサノヲさんは死刑を間逃れます。

きっと、ホノコさんは思慮深く、慈悲深いお方だったのでしょう。ホノコさんはアマテルカミとの間に皇太子オシホミミを授かります。

※当ブログでは、基本的に親しみを込めて人物は「~さん」付けしております。ただし、アマカミなど高貴な方や眷属に関しては、敬意を込め敬称略で記載する場合があります。

ホノコさんに呼ばれる?

実は前々から小野神社には参拝に行きたかったのですが、なかなか予定が合わず、実現しませんでした。ですが、こちらから「お会いしたい!」という気持ちはちゃんと御祭神に伝わります。

余談ですが、行きたい神社になかなか行けなくても、気にする必要はありません。それは、御祭神側と皆さんのご都合があるからです。タイミングが合った時に参拝のチャンスが訪れます。

小野神社のこともすっかり忘れていたある日、ぱっと「小野神社!」と閃きがきました。(私はだいたい閃きかインスピレーションで「呼ばれた!」と察知します。)ようやく参拝できるチャンスが訪れました。

神社に呼ばれる理由とは?

ここで、神社に呼ばれるとは?そして呼ばれる理由とは何か考えてみたいと思います。

皆さんが頻繁にある神社を見聞きする突然その神社の名前が閃く時は、その神社から呼ばれている可能性があります。

神社に呼ばれる理由は、大まかに分けて以下の3つの理由が考えられます。

  • 御祭神が皆さんに良くないものがついているので、祓ってくだろうとしている。
  • 御祭神が皆さんの願望成就の手助けしたいと思っておられる。
  • 御祭神が皆さんと御縁を結びたいと思っておられる。

ホノコさんが呼んでくださったということは、こちらの神社でホノコさんと繋がれることを意味します。

早速、小野神社へ向かったのですが。。。

ホノコさんはどちらに?

朱塗りの立派な本殿

早速、本殿の前で祝詞を奏上し、自己紹介をしましたが、「。。。。」反応がありません。

なんというか、不在という感じなのです。

呼んでくださったからには、おられると思ったのですが、私は少しがっかりして帰宅しました。

参拝後に起こった異変

小野神社は武蔵国一之宮神社です。私は一之宮神社に参拝するとかなりの確率で参拝前後に睡魔に襲われ、強力な毒出し(悪いもの、悪い感情が排出されること)が起こります。

小野神社に参拝した当日は何ともありませんでしたが、翌日から異変が起こりました。

突然、野菜をもりもり食べ始める

最近、出先で食事をすることが多く、食事が偏っていたのですが、参拝後に無性に野菜が食べたくなりました。とにかく野菜やサラダを沢山食べています。

お陰で仕事も絶好調で、夏バテはどこへ行ったの?というくらいの爽快ぶりです。

参拝二日目の謎の睡魔

参拝の二日目に謎の睡魔に襲われます。単なる睡眠不足かと思うかもしれませんが、明らかに神社参拝後の眠気が今になってやってきたという感じでした。

ホノコさんが私についている悪い習慣や悪いものを祓ってくださったのでしょう。本当にありがたいです。

残念ながら、本殿でご本人の気配は感じられませんでしたが、ホノコさんの癒しのパワーを参拝後に実感できました。

そんな素敵な小野神社、是非機会がありましたら、参拝してみてくださいね!

最後までお読みいただき、ありがとうございました!

諏訪大社とタケミナカタさん

こんにちは、今回は随分前に参拝した長野県は諏訪市に鎮座する諏訪大社と、御祭神のタケミナカタさんについて書きたいと思います。

諏訪大社は前宮、本宮、春宮、秋宮の四社からなっています。諏訪大社のホームページを見ると、御祭神は建御名方神、八坂刀売神、八重事代主神と書かれています。

タケミナカタさんについては後ほど詳しく述べたいと思います。

のどかな風景が広がる長野県

諏訪大社参拝のきっかけ

参拝当時はホツマツタヱは知らず、ネットで諏訪大社がイスラエルの失われた十支族とかかわりがあるのでは?という日ユ同祖論をYouTubeやブログを読んで興味を持ちました。

日ユ同祖論とは、世界に散らばったイスラエルの失われた10支族の1支族(第9族エフライム族、第5族ガド族、または第7族イッサカル族)の数人が日本に移住したという説があります。(引用元:Wikipedia)

上社前宮にある「十間廊」という建築物が、イスラエルの「聖所」と呼ばれる幕屋に由来する説があります。

御祭神のタケミナカタさんと歓迎を受け、また本宮でお会いした意外な御祭神についても触れていきます。

諏訪大社四社巡り

まずは前宮から参拝しました。

前宮の鳥居

前宮はとても暖かい優しい気で満ちていました。御祭神はタケミナカタさんと奥様のヤサカトメノミコトさんと書かれています。

暖かく出迎えてくださっている様子が伝わりました。前宮の奥がお二方の墳墓となっており、古来より禁足地になっています。

冒頭で述べた、十間廊も前宮で見学できます。

上社前宮の十間廊

本宮の御祭神

次に向かったのは本宮です。ものすごく歴史の古い神社という印象を受けました。

先に拝殿に参拝した夫が「雄々しくて壮大な神様だったよ」と言っていたので、ワクワクしながら拝殿に向かいました。

早速ご挨拶をしたところ、大きくて黒い蛇のお姿が見えました。

こんな感じに見えました(背景は架空の神社にしています)

「あっあれ?」と私はびっくりしました。拝殿におられたので恐らく御祭神なのでしょう。

なんで蛇の神様なんだろう?」と不思議に思いましたが、帰宅後にネットで調べたところミシャグジ様という神様が諏訪の地で信仰されていたことが分かりました。

ミシャグジ:中部地方を中心に関東・近畿地方の一部に広がる民間信仰(ミシャグジさま信仰)で祀られる神(精霊)のこと。(引用元:Wikipedia)

本宮にミシャグチ様がおられたということは、縄文時代に起源を持つ自然崇拝が信仰されていたことを物語っています。つまり、諏訪の地をおさめていたタケミナカタさんが、ミシャグチ様の信仰を認めておられたのでしょう。

諏訪大社・下社春宮

次は下社の春宮を参拝しました。こちらは本宮と雰囲気が少し変わります。結婚式も執り行われており、幸せオーラで満ちていました。

結婚式も行われていました。

こちらの御祭神もタケミナカタさんとヤサカトメノミコトさん、ヤエコトシロヌシさんとなっています。

ヤエコトシロヌシさんとは?

ネットで見ると八重事代主とは事代主の別名とあります。つまりホツマツタヱで言うところの2代目モノヌシのクシヒコさんを指します。

ちなみにコトシロヌシとは役職名で副大臣に相当します。クシヒコさんは若い頃はコトシロヌシで、後に父のオホナムチさんの後を継いで、モノヌシになります。

つまり、御祭神はタケミナカタさん、ヤサカトメノミコトさん、クシヒコさんということになります。

ホツマツタヱのヤエコトシロヌシさん

ホツマツタヱでは、ヤエコトシロヌシさんはクシヒコさんの息子のミホヒコさん(三代目モノヌシ)の次男のツミハさんを指します。

では、諏訪大社の御祭神のヤエコトシロヌシとは、クシヒコさんとツミハさんどっちなの?という話になりますが、(私は)クシヒコさんだと思います。

理由はクシヒコさんの方がよりタケミナカタさんと近い間柄だからです。(クシヒコさんはタケミナカタさんの腹違いの兄になります。)

諏訪大社・下社秋宮

下社秋宮には子安社の陰陽石というものがあり、当時妊活中だった私は子授けの御利益があると聞いて楽しみにしていました。ところが、どこを探しても陰陽石が見当たりません。

「あれ?あれ?」と夫と探し回りますが見つかりません。

子安社の下の柵をかがんで覗き込むと、ありました!しかも男性と女性の大切なところの形をしています。(※そのため写真は掲載できません。)

ホツマツタヱではサルタヒコさんが男女の陰部をかたどったものを人々が集う神社に飾ったと書いてあります。男女の陰部から生命が誕生するため、神様として尊く崇めていたのでしょう。

陰陽石の男性側を撫でると男の子が、女性側を撫でると女の子が授かるとのことで、男性側を撫でたのですが、ちゃんと男の子が授かっています。

ホツマツタヱのタケミナカタさん

ホツマツタヱでは、タケミナカタさんはどのように書かれているのでしょうか?

その前にホツマツタヱは景行天皇の命令でクシミカタマさんとオオタタネコさんとが編纂した歴史書で、基本的には古代のアマカミ(天皇)を中心に書かれています。

ちなみに、クシミカタマさんはソサノヲさんの六代目、オオタタネコさんは十代目の子孫にあたります。

そのため、タケミナカタさんに関する記述は限られていますがご紹介します。

その前に出雲の国譲りのお話をしておきます。

出雲の国譲りとは

出雲をおさめていたオホナムチさんは持ち前の人格と政治力を生かして、出雲の国を豊かにします。そして、自分たちの社を朝廷の宮より立派だと言って、驕り高ぶります。

それを朝廷側が悟り、一国の豊かさは反乱を招く危険性もあり、出雲に次々と使者をおくりますが、オホナムチさんは使者を丸め込んでしまいます。

朝廷側の使者であったアメワカヒコさんは、すっかりオホナムチさんに同賛して、朝廷側の使者に弓を放ちます。そこで、朝廷側が平定軍を差し向けます。

慌てたオホナムチさんはミホの地に隠棲していた息子のクシヒコさんに助言を求めます。クシヒコさんは慢心した父を諌めるために、役職を退いて、隠居生活をしていたのです。

クシヒコさんは「民を幸せにする朝廷は尊いので、降伏するしかありません。」と父を説き伏せます。

クシヒコさんのお陰で戦は間逃れ、オホナムチさんは出雲を離れて、ツカル(津軽地方)の地へ赴きます。これが出雲の国譲りです。
ここでクシヒコさんの人格の素晴らしさが光ります。朝廷をないがしろにはしないのです。それどころか役職を退いて潔く身を引きます。地位や名誉に執着している人であればなかなか出来ないことです。

また、息子に助言を求めて、息子に従うオホナムチさんも立派です。慢心したとはいえ、誰でも栄光を手にすれば、無意識のうちに驕り高ぶるものではないでしょうか。

息子が説き伏せても、決して親の権威を振りかざしていません。オホナムチさんも謙虚で優しい人ということが伝わります。

最後まで抵抗したタケミナカタさん

朝廷から送られた平定軍に最後まで抵抗したのがオホナムチさんの息子のタケミナカタさんと言われています。

タケミナカタさんはクシヒコさんの母であるタケコさん(アマテルカミの娘)から生まれたのではなく、オホナムチさんの別の妻から生まれた方です。

オホナムチさんは傲慢になったとはいえ、謀叛を起こしたわけではないので、タケミナカタさんも納得いかなかったのではないでしょうか。

ただ、朝廷側としては一国が豊かになると反乱の危険性もあり、一国の主が朝廷をないがしろにする言動と態度は見過ごせなかったのでしょう。

タケミナカタさんは諏訪の地で平定軍のタケミカヅチさんに降伏したとホツマツタエに書かれています。

諏訪の地をおさめたタケミナカタさん

タケミナカタさんは国譲り後は信濃の国をおさめていました。

朝廷が獣肉食禁忌令を出した際にも「信濃の国は寒いので獣肉食を採ることをご承知ください。」と朝廷に伝えているため、朝廷に従っていたことが分かります。

信濃の国を開拓し、地元に方にも慕われていたと思います。全国に25,000社もある諏訪大社の総本山ですから、多くの方々の崇敬を集めていたのでしょう。

そんな素敵なタケミナカタさんに会える諏訪大社に是非機会がありましたら参拝してみてください。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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