光の御子が誕生するまで ~イサナギ・イサナミ様のご苦労~

こんにちは!前回はイサナギ・イサナミ様を紹介しましたが、このお二方からアマテルカミ(天照大神)誕生します。

ヲヲンカミ(天照大神の別の呼び名)が素晴らしい方ということは、このブログでも再三紹介しているのですが、三千年に一度の逸材というか異次元の指導者:アマテルカミは一体どのようにお生まれになったのでしょうか?

ちなみにイサナギ・イサナミ様が普通に夫婦生活をして、なんとなく授かった方ではありません。(→ここ重要)

光の御子が誕生するまでには、実はアマテルカミの祖父:トヨケカミ、両親:イサナギ・イサナミ様の途方もない努力があったのでした。

今回はその感動とも言えるエピソードをご紹介します。

イサナギ・イサナミ様長女ワカヒメ様(ヒルコヒメ)を授かるのですが、なかなか跡継ぎとなる男子が誕生しませんでした。

そこで、イサコヒメ(イサナミ様の実名)の父である、トヨケカミ(豊受大神)は世継ぎ子を乞い得るための社(ヨツギヤシロ)を建てて自ら祈ります。

富士山に登り、嗣子の誕生を祈る

更に、イサナギ・イサナミ様富士山(太古の昔、ハラミ山と呼ばれた)に登って祈ります。

イサナギ様は振り返り、イサコヒメにこう伝えます。

二人して国々を巡り民を治めた。ヒルコヒメという素晴らしいヒメも儲けた。今度はぜひ日の神を生みたいものだ

イサナミ様の御心にもちろんイサコヒメも同意し、お二方は千日(2年9カ月)にも及ぶ努力を重ねます。

イサナギ様池水左の目を洗い、日の神に祈り、イサナミ様も池水で右の目を洗い、に祈りました。

世継ぎ後の誕生を祈るお二人

そして、イシコリトメという方がマスカガミを作って、お二方にすすめると、イサナギ様は「天下を治める聖なる嗣子を生もう」と決意され、

マスカガミを左右に置いて、左を日右を月になぞらえて、神様の降臨を一心に祈りました。

千日にも及ぶ努力の後

こうして、千日にも及ぶ努力を重ねた後、お二方の肌が桜色に染まってきました。

そして、イサナギ様は神様の御魂がご自身のチリケ(脊椎骨の第三椎あたり)のに入られたことに感動を覚えました。

イサナミ様は「月のものも終わり、3日経ちました。身は大変綺麗でございます。お日が入るのをお待ちしております」と仰います。

(はるか昔から、女性の月経から3日が受胎しやすいということを知っていたとは驚きですよね!)

そして、イサナギ様はにっこりされて、お二方は心を込めて日輪を拝みました。

すると、目の前にお日様の精が降下されたので、お二人は思わずお日様の精を抱きかかえ、

しばらく夢心地から覚めると心身爽快、かつてない素晴らしい気持ちになりました。(→描写がとにかく美しい)

イサナギ・イサナミ様

光の御子誕生

お二人の努力の甲斐あって、ついに男子を懐妊しました。

そして、アマテルカミは二十一スズ百二十枝のキシヱの歳、初日ほのぼの出る日にお生まれになりました。

このスズというのは「マサカキ」のことです。(の一種)「マサカキ」は6万年(6万年の尺度は不明)で枯れるとされ、太古の昔には、長い年月を数える暦に用いられていました。

榊の木

現代でも榊の木は至る所で見られますが、ヲシテ時代に見られた真正のマサカキは枯れてしまい、

全国を探しても見つからなかったので、替わりに梓の木に彫りつけて年数を数えたので、マサカキコヨミからアススコヨミに変わります。ヤマトタケさんの時代にはアススコヨミになっています。

マサカキの一枝を60年、百枝を6千年と数えたので、ニ十一スズとは初代クニトコタチマサカキを植えてから二十一本目(126万年)百二十枝(7,2000年)の歳という意味になります。

アマテルカミの産湯を取った方

アマテルカミの産湯を取った方はシラヤマヒメという方です。シラヤマヒメが産湯の奉仕をすると、アマテルカミの体は朝日のようにキラキラ✨と輝き、神々しくてうっとりとするようでした。

そして、アマテルカミの産湯の奉仕の際に、アカヒコという方が桑で作った弓を鳴らして、ハタレ(悪魔)を追い出しました。

これが「鳴弦の儀」の由来になっています。

シラヤマヒメが産湯を取ると、アマテルカミは「あな嬉し」と仰ったそうです。

生まれたばかりの赤ん坊は一般的にワーとか、アーと泣いたり、アウアウという声を出しますよね。それをシラヤマヒメは普通の言葉として聞き取ることが出来たそうです。

アマテルカミ自らイミナを名乗る

そして、アマテルカミイミナ(本名)を付けようと思ったところ、もしかしたら、自らお名前を考えではない

と御付きの方々は考えました。そこで、シラヤマヒメに聞き取って頂けないかと頼みました。

シラヤマヒメがお名前をお尋ねになると、アマテルカミは「ウヒルギ」と答えたそうです。

アマテルカミの産湯を取ったシラヤマヒメ

ここはホツマツタヱの本文を見てみましょう。

ミコノコエ キキキルトキハ オキナナノ ウハオホイナリ ヒハヒノワ ルハヒノチタマ
ギハキネゾ カレウヒルギノ ミコトナリ キネハメオトノ ヲノキミゾ

御子の声 聴ききる時は 幼名の ウは大いなり、ヒは日の輪 ルは日の霊魂

ギはキネぞ かれウヒルギの ミコトなり キネは夫婦の 男の君ぞ(ホツマツタヱ四アヤ)

大日靈貴命とはアマテルカミのこと

以前に有鹿神社(神奈川県海老名市鎮座)御祭神大日靈貴命(オオヒルメムチノミコト)となっていたとお伝えしました。

大日靈貴ウヒルギ)とは天照大神を指します。有鹿神社ではちゃんと「貴」=男性となっていたので、

アマテルカミ(天照大神)にお会いすることが出来ました。

さて、アマテルカミの祖父:トヨケカミアマテルカミ「ヒノワカミヤのワカヒト」イミナ(実名)を奉りました。

ワカヒトとは「光が溢れ出るような方」という意味になります。アマテルカミに相応しいお名前ですよね。

シラヤマヒメのこと

シラヤマヒメのことをもう少し詳しく見てみましょう。ココリヒメ・キクキリヒメとも呼ばれます。

ネノクニ(北陸)出身で、イサナギ様のお姉さんです。アマテルカミ出産時の助産も行っています。

トヨケカミの後を継いで第六代タカミムスビとなられたヤソキネさんに嫁ぎ、ネノクニ(北陸道諸国)を治めたので

シラヤマカミと呼ばれます。居住地は白山比咩神社(石川県白山市)とされています。

白山比咩神社

このお二方の間に第七代タカミムスビタカギさんが生まれています。

さて、以上がアマテルカミ(天照大神)誕生までのエピソードになります。

三千年に一度の逸材は祖父、両親、周囲の方々の熱心な祈りと並々ならぬ努力によって誕生されたことが分かりました。

最後までお読みいただきありがとうございました!

参考図書:秘められた日本古代史 ホツマツタヘ 松本善之助氏著 /ホツマ辞典 池田満氏著

イサナギ・イサナミ様について

こんにちは!今日はイサナギ・イサナミ様について書いてみたいと思います。

第七代アマカミ(古代の天皇)イサナギ・イサナミ様は言わずと知れた第八代アマカミアマテルカミ(天照大神)ご両親ですが、

イサナギ・イサナミ様

どんな功績を立てたのかあまり知られいない、というか恐らく全く知られていないと思いますので、ご紹介したいと思います。

第七代アマカミとして即位

第六代アマカミのオモタル・カシコネ様は世継ぎ子に恵まれず、気候の変動で食糧事情も困難な状況にありました。

そこで、ネノクニ(北陸道)・チタル(山陰道東部)で優れた政治を行っていたアワナギという方の息子のタカヒト様(後のイサナギ様)

ヒタカミ(東北)を治めていたトヨケカミ(豊受大神:伊勢神宮外宮の祭神)の娘イサコヒメ(後のイサナミ様)が夫婦となり、第七代アマカミに即位されました。

トヨケカミアマカミの素質を十分持っておられたと思いますが、後継者に優れた人材を選び、アマカミの教育を施して、

即位させたところがつくづく凄いと思います。)

イサナギ・イサナミ様の功績

アマカミとして即位されたイサナギ・イサナミ様が立てた功績を一覧に纏めてみました。

第六代アマカミのオモタル・カシコネ様は、ト(トノヲシテ)ホコ(昔の剣)カンタカラ(神器)イサナギ・イサナミ様に譲り、

「アシハラ(現:畿内)の千五百の村落の治世が要である」と伝えました。

イサナギ・イサナミ様は芦の生える低湿地に人々の生活の場を確保して、豊かに自活できるミチを立て、トノヲシテ(恵民立国)の精神に戻づいて国を豊かにしました。

これをオノコロ(自ずから凝るという意味)といいます。

イサナギ・イサナミ様は人手で行っていた水田耕作ムマ(馬)・ウシを用いて効率化を図り、元々千五百あった村落を三千に増やしました。

イサナギ・イサナミ様の功績 ~国語の再編~

イサナギ・イサナミ様筑波山(茨木県)山腹イサミヤにて新婚生活を送り、オキツホ琵琶湖西南岸の日吉大社が有力説)で即位されました。

オキツホ国境の確定が行われ、当時タミの間で起きていた言葉の混乱を解決するため、五七調のアワウタを制定されました。

アカハナマ~ヘネメオコホノまでの二十四音イサナギ様が歌われて、モトロソヨ~シヰタラサヤワまでの二十四音イサナミ様が歌われました。

なぜ五・七調のウタにしたのか?恐らく人々が覚えやすいようにしたのでしょう。よく歴史の年号など受験生が覚えやすいように、語呂合わせで歌にしている教材を見かけますが、

趣旨としては同じようなものだと思います。

皆さんも是非口にしてみてください。数回口にしただけで簡単に覚えられるのではないでしょうか?

このアワウタを今度は母音で区切ってみました。

アワウタは五・七で区切られていますが、母音で区切ると上の図のようになります。

左側を縦から読むと、「アイウエオ」「カキクケコ」・・・の順になっていることが分かります。

大人はこのアワウタを弾きながら子供たちに教えました。

イサナミ様がおられた時代は今から3,000年くらい前と言われていますが、そんな時代から国語が制定されていたことは本当に驚きですよね。

ただ、言葉が通じなければ、トミ(中間指導者)がタミに農業や稲作指導を行う際にも困難が生じるため、国語の制定国家安寧のためにも必須事項でした。

イサナギ・イサナミ様は全国で人々の指導に当たられていたため、次男のツキヨミさん宮崎県の阿波義原町産母ソサノヲさんクマノ(熊野本宮大社付近)

でお生まれになりました。

イサナミ様の微笑ましいエピソード

イサナギ様との結婚前に、ハヤタマノヲ(新宮市:速玉大社祭神)という方が、イサコヒメに子供のつくり方を教えたのですが、

イサコヒメが恥ずかしがり、一度に理解できなかったので、今度はコトサカノヲという方が一生懸命教えたところ、

やっと理解することができたという微笑ましい内容がホツマツタヱに残っています。

イサナミ様の亡くなられたところ

詳細は分からないのですが、イサコヒメソサノヲさんのいたずらに巻き込まれて亡くなられたそうです。

ソサノヲさんが暴れて世の人に迷惑をかけたことに対し、懐妊時ケガレがあったせいではないかと考えたイサナミ様

民のすべてのケガレを背負って、熊野の地にクマノミヤ(熊野本宮大社)建てたとホツマツタヱにあります。

熊野速玉大社

そのイサナミ様ですが花の窟神社(三重県熊野市有馬)に葬られたそうです。

花の窟神社

イサナギ様、妻の墓を開けてしまう

最愛のイサナミ様を失ったイサナギ様は妻に一目会いたいと周囲が止めるのも聞かずに墓を開けてしまいます。

そこには変わり果てたイサナミ様の姿がありました。(亡骸は腐敗が進んでいたのです)

そして、夢に現れたイサナミ様に問責され、オトナシカワ(熊野本宮大社旧地の西を流れる川)

→九州北部のナカカワアワキ(宮崎県阿波義原町江田神社付近)を行います。

このことは祓詞にしっかりと書いてありますよね。祓詞を見てみましょう。

掛けまくも畏き伊邪那岐大神 筑紫の日向の橘小戸の阿波岐原に 御禊祓へ給いし時に生り坐せる
祓戸の大神達 諸諸の禍事罪穢有らむをば 祓へ給ひ清め給へと白す事を聞こし食せと 恐み恐みも白す

ホツマツタヱは偽書とされていますが、要所要所で辻褄が合ってますよね。さて、このくだりを読んで、美鈴は思った。

イサナギ様の亡くなられた場所

イサナギ様淡路島でお亡くなりになります。淡路伊佐奈岐神社(現:伊弉諾神宮)葬社だったと伝えられています。また功績の大きさから、

琶湖東岸の多賀大社にも祭られております。

多賀大社

その他にも、イサナギ・イサナミ様のエピソードは沢山出てくるのですが、それはまた追々ご紹介したいと思います。

最後までお読みいただきありがとうございました!

参考文献:ホツマ辞典:池田満氏 /秘められた日本古代史 ホツマツタヘ 松本善之助氏

アマテルカミ服装について述べる

こんにちは!今日はアマテルカミ(天照大神)人々の服装について述べておられる一節をご紹介します。いつものように池田満氏の「ホツマツタヱを読み解く」から引用します。

「ホツマツタヱ」「フトマニ」等のヲシテ文字で書かれた文献五七調のウタになっており、「ト」「ホ」等の一文字でも多数の意味を持ちます。

そのため、ヲシテ文字を目で追っただけでは、なかなか理解し得ないところが多数あります。

筆者のオオタタネコさんが書いた時代がだいたい2,000年程前になりますので、現代では使用されていない古語がふんだんに盛り込まれており、

どういう意味だろうと頭を悩ませる箇所もあります。

それを池田満氏が現代人にも分かりやすいように、絶妙な注釈をつけてくださっているので、そちらをご紹介します。

現代人にもすっと入ってくる内容ですので、たいへん興味深いのではないでしょうか?

人々の服装について考えてみると、誰しもお洒落をして着飾ることは楽しいものである。
しかし、服装もあまりに贅沢に及んでしまうと懐具合に悪影響をもたらす。

(中略)キヌを多用して衣服を作ったり、(当時は草木の繊維で織るユフが主流だった)
染色を極めた過度のお洒落は、自然と農作業の方には力が注がれなくなる。

これでは良質の稲は得られない。(衣服は)最低限のイノチを繋いでゆくだけのものしかない。
ゆくゆくは糧の不足をきたすであろう。

また、過度にすぎた贅沢は天候の不順をも招く恐れがある。そして租税の滞納をきたせば社会は混乱が生じる。
名は体を表わす、という言葉もあるように、衣装にはヒトの心のありようも方向づけてゆく働きがある。

過度の装いは、驕りの心を招き、目先の利にばかり走るようになる。小利口が過ぎてくると、
これはハタレ(理由なきまでに金品を強いて要求すること)の成り初めである。

人々が華美におもむけば、やがてはハタレの横行を呼んで、人々は苦しむことになる。

過度のお洒落にご用心

驕り高ぶりはハタレの原因

この内容を見ると、ハタレの原因は私たちの心の中にある「驕り」「驕慢」が原因であるとアマテルカミは仰っています。

この驕りや驕慢は本当に厄介で、知らず知らずのうちにむしばまれていたりします。

アマテルカミはこの心の内側に潜む傲慢さに、常に目を光らせていたことが分かります。

美鈴も知らず知らずのうちに驕慢になっておりました。

今日はアマテルカミの服装について語られた内容を取り上げてみました。

最後までお読みいただきありがとうございました!

天の岩戸の真相~ウスメさんの場合~

こんにちは!今日はあの有名な天岩戸の真相をウスメさんに焦点を当てて取り上げたいと思います。

天の岩戸の話

アマテルカミ(天照大神)弟ソサノオさんソサ(紀伊の古名)で生まれたのでソサノヲと呼ばれた】は父君のイサナギ様からネノクニ(現:北陸)を治めるように言われます。

しかし、アメナルミチ(恵み和すの精神)を真に理解していないソサノヲさんにクニカミの位を授けることを躊躇します。

それでも、ソサノヲさんネノクニとサホコ(出雲)に行くことになるのですが、ネノクニでも居場所を確保できず、嫁取りの話も破談になってしまいます。

兄のアマテルカミに恨みを抱いたソサノヲさんは田畑を荒らし、神衣を織る斎服殿を汚すという暴挙に出ました。

すっかり心が荒んでしまったソサノヲさん

斎服殿におられたハナコヒメ(アマテルカミの妃、ムカツヒメ(ホノコヒメ)の妹)の体に(織機を縦糸に横糸を通す道具)が刺さり、亡くなられてしまいます。

アマテルカミがソサノヲさんに詠んだウタ

このことを耳にしたアマテルカミソサノヲさんを呼び出し、以下のウタを読んでソサノヲさんを諭そうとします。

アマガシタ ヤハシテメグル ツキヒコソ ハレテアカルキ タミノタラナリ
天下を治めることは、両親が子にするように、民をいつくしみ和してこそ全うされるのであり、日月のように明るくあって、何の屈託もあってはならない

このウタはとても重要なウタで、クニを治めるものはアメノミチ(恵み和す精神)を忘れてはならないという重要な意味合いがあります。

現状、ヲシテ文字(古代文字)で書かれた文献は、「ホツマツタヱ」、「ミカサフミ」、「フトマニ」の三書ですが、この文献が残されたのは、

歴史書を残すだけでなく、このアメノミチを後孫に伝える目的で書かれたと言っても過言ではないのかなと思います。

そのため、誰よりもアメノミチを全うしておられたアマテルカミの内容がふんだんに盛り込まれています。

話を元に戻して、ソサノヲさんは素直に聞くどころか、なおも怒り続けたため、アマテルカミは岩戸にお隠れになりました。

岩室:天然の岩屋を入口で塞いだもの(恐らく)

太陽のようなアマテルカミ岩戸にお入りになられたので、オモイカネさん(アマテルカミの姉ワカヒメの夫)ツワモノヌシ(アマノコヤネさんの祖父)等重臣達が集まり、

ツワモノヌシさんが祈りを捧げます。(ツワモノヌシさんトヨケカミの子で、とても霊力の強い方だったそうです。)

ツワモノヌシさんの名前が出たので、参考までにアマノコヤネさんの系図を載せておきます。アマノコヤネさん上古代の重臣で、後の藤原氏の先祖にあたる方です。

ウスメさん(アメノウズメ)登場

ツワモノヌシさんが一生懸命祈った後、今度はウスメさんが(一般的にアメノウズメとして知られる)シダ科のヒカゲカズラをたすきにして、茅草を巻いた鉾を持ち、

ヲケラ草を庭に焚き笹を斎花として、神倉の神戸の前に篝火を燃やしたとあります。

ウスメさんは裸で踊ったというのが通説ですが、ホツマツタヱでは、ウスメさんヒカゲカズラをたすきにしたとあります。ウスメさんサルタヒコさんでもありますし、

モ(スカートみたいな衣服:高貴な身分の人が着用した)を履いていたので、恐らく身分の高い方です。

ニニキネ様にも仕えていたので、能力の高い方ではないかと思うのです。

美鈴がイメージするウスメさん

上古代は女性が蔑視されていなかったので、高貴な方が裸で踊ったとは考えられないと思います。

オモイカネさんをはじめ、重臣たちは「ナガサキ」の歌を歌って踊ります。そして、アマテルカミを香しい夫に見立てて、

「お姿が見えなくても、余香が素晴らしいので酔いしれてしまう」というウタを詠みます。

外の賑やかな様子に不審に思ったアマテルカミが戸を開けたすきに、オモイカネさんの息子のタチカラヲさんがアマテルカミの手を引いて、

ツワモノヌシさんが「二度と岩戸に入られませんように」と告げた、これが天の岩戸の真相です。

ウスメさんとサルタヒコさんの出会い

ウスメさんが胸を開ける描写は確かにホツマツタヱにあります。それは天の岩戸のくだりではなく、

ニニキネ様がサルタヒコさんに会うシーンです。

サルタヒコさんは初代クニトコタチの本流であるエノミコトのお血筋で由緒正しい方です。

安曇川まで開拓を進めたニニキネ様は琵琶湖岸を南下しますが、ニニキネ様は皇太弟という立場だったので、琵琶湖周辺に縁の由緒正しいサルタヒコさん

受け入れてもらえるか懸念していました。

お供していたタチカラヲさんも物怖じしている様子なので、女性のウスメさんを呼んで、先触れを頼みます。

サルタヒコさんは川辺に寝そべっていたのですが、ウスメさんサルタヒコさんの警戒を解くために、

衣服の胸元を開けて、モ(スカートみたいな衣服)を腰まで下げて、サルタヒコさんに近づきます。

ウスメさんとサルタヒコさんは後に夫婦となる

ウスメさんサルタヒコさんにアマテルカミのお許しの元、ニニキネ様が全国を巡行されていることを告げます。

サルタヒコさんは、「ニニキネ様のご意思に同賛して、おもてなししようと思っており、ニニキネ様の事業に喜んで協力します。」と伝えたのでした。

今日は天岩戸の真相~ウスメさんの場合について~紹介してみました。

裸で踊ったのでは、ウスメさんの威信に関わりますし、ウスメさんは賢くて、機転の利く優秀な女性だったの思うのです。

なので、あえて取り上げてみました。最後までお読みいただきありがとうございました!

参考図書:池田満氏著 ホツマ辞典

     松本善之助氏著 秘められた日本古代史 ホツマツタヘ

上古代の税の意味

こんにちは!今日は上古代のについて考えてみたいと思います。

実は初代クニトコタチの時代から、税の原型となるものが存在していたことが、ホツマツタヱを読むと分かります。

では、どのような経緯で「税」に変わっていったのか見ていきたいと思います。

初代アマカミ(昔の天皇のこと)のクニトコタチ様アメ(絶対神)にお供えしたのは「木の実」でした。

二代目アマカミクニサツチ様の子供にウケモチという方がおられました。このウケモチという方が稲栽培の先駆者であり、

三代アマカミのトヨクンヌ様に稲作の方法と種を伝え、自国の京都南部で稲作栽培をいち早く行っていました。

そのウケモチさんが植えた稲が、八月一日に収穫祭を挙行すべきほどに実ったので、当時のアマカミであった三代トヨクンヌ様

カシキ(赤白黄)ユフニキテ(木の繊維で作った幣)アメナカフシを祭り、精米して粥と重湯をお供えしたと書かれています。(ホツマツタヱ 15-22)

ここで、クニトコタチ様がお供えした「木の実」「稲穂」としてアメナカフシに捧げられました。

ちなみに、ウケモチというお名前には、多くの食料を得るという意味があります。ウケノミタマともいいます。

京都伏見稲荷社の祖神は?

余談ですが、このウケモチさん八代目の子孫カダノミコトという方で、八代アマカミアマテルカミの治世で、農業大臣の役職についていました。

実は京都府伏見に鎮座する伏見稲荷大社は、このウケモチさん祖神として祀るカタノカミ一族なのです。

カタノカミという方はカダノミコトの父親なのですが、誤認によって殺害されてしまいます。

父の喪が明ける際に、カタノカミは国家のため、国民のために、農業技術の指導を決意しました。

祖先のウケモチさんから代々伝えられてきた農業技術を惜しみなく公開し、アマテルカミより「ヨヨノタミ マモリツカサ」の称号が贈られます。

(ヲヲンカミは常に最高の言葉で人を褒める方なのです)

伏見稲荷大社

話を元に戻して、アメナカフシに捧げられた稲穂は、やがて民から納められる税(ミヅホ)に変わっていきました。

ミクサノカンタカラ(三種の神器)一つであるトノヲシテ(恵民立国の基本理念)は「天地自然の恵みをアマカミが代表して受け、人々に恵み分かつ」ことが基本構造でした。

そして、人々が感謝の心を形に表してアマカミに献げたものが古代における税の原型でした。

そして、民から献けられた物を活用して新規事業を興し、人々の生活を更に豊かにすることで人々とアマカミの間で信頼関係が成立していました。

池田満氏が仰られていますが、税の根底には「感謝」が根底に備わっていたと考えられます。

しかし、六代アマカミオモタル・カシコネ様の治世に、気候の変化によって、農作物の減収が起こりました。そのため、人々の間で朝廷に対する疑念が増え、税が減少するという事態になりました。

税の減収により、政は貧弱となり、治安維持の出費が増える悪循環に陥ったのです。

そのため、目先の利益に走って他者から搾取する悪人を処罰するため、トノヲシテの他にサカホコ(古代の剣みたいなもの)が追加されました。

あくまでイメージです

ヲヲヤケを立てて、社会の平安を維持するためには、税の徴収も強制的な側面も追加しなければならなくなったのですが、

人々が税を厭う気持ちになったのは、実は裏道を公然と行く悪だくみが原因であると池田氏は仰っています。

国家成立当時の税の意味合いはそもそも、アマカミが天の恵みとして頂いた、穀物、作物をお供えしていたものが原型であり、

感謝の意味合いがあったことがホツマツタヱを読むと分かります。

美鈴の所感

時代の変遷により、ある程度は強制的に税を徴収する必要はあったものの、そもそも租税には感謝の意味合いが込められていたことは大変興味深い内容であると思います。

やはり子供のうちから「なぜ税を納めるのか」、「納めた税はどのように使われるのは」子供のうちからしっかり教育することがとても大切であるかなと思いました。

それから稲荷社ですが、毎回稲荷社にお参りするとこのウケモチさんが温かく迎えてくれます。(とても優しい方なのです)

ウケモチさんの功績を考えると全国に3万社も稲荷社があるのは頷けます。

ただ、全国の灌漑事業に功績を収めたニニキネ様をお祀りする社も同じくらいあってもおかしくはないのかなと思います。

今日は上古代の税の意味についてお話ししました。最後までお読みいただきありがとうございました!

ニニキネ様のこと

こんにちは!今日はアマテルカミのお孫さんにあたるニニキネ様(瓊瓊杵尊)について書きたいと思います。

一般的にはニニギノミコトとして知られる方です。

ニニキネ様

ニニキネ様アマテルカミ後継オシホミミ様タクハタチチヒメとの間に生まれた方で、イミナキヨヒトといいました。ホノアカリ様(アスカヲキミ)という兄がおられました。

ちなみに奥様子安神で有名なコノハナサクヤヒメ(アツシヒメ)です。

アマテルカミは孫たちの中でもひときわ優れていたニニキネ様「ミマコ」と呼んで可愛がりました。

ニニキネ様の功績は目覚ましく、日本各地で灌漑水田の普及にご尽力されました。

ニニキネ様の治世では長男のホノアカリ様との二朝廷並立でしたが、この功績によりニニキネ様の系統が本流になります。

ニニキネ様天孫降臨で有名な方ですが、高千穂(霧島山)カミアガリ(洞穴に入って亡くなること)をされたため、関東に縁がないと思われるかもしれませんが、実はニニキネ様が初めに治めたクニは茨城県筑波山付近で、ニハリノミヤに居を構えました。

ニニキネ様の眠る霧島山

ニニキネ様がアマテルカミの伊勢・志摩で灌漑事業の実証を成功させると、アマノコヤネさん、クシヒコさん、タチカラヲさんを引き連れて、全国巡幸に出かけて灌漑事業を指導されます。ニニキネ様が巡幸された地域は近畿・山陰道・北陸道・山陽道・九州・関東一円に及びました。

富士の裾野に三万の水田の開発に成功を収めたニニキネ様はサカオリノミヤ(旧:ハラミノミヤ)を建て直し、新しくハラアサマミヤと名付けて、建築にコカネをはめ込み、ウルシで彩色を施したといいます。

あくまでイメージです

さぞかし美しかったと思うのですが、ニニキネ様はキヌではなく、ユフ(草の繊維からできた布)を履かれたそうです。

ニニキネ様が開発された土地

ニニキネ様が開発された主な土地を以下に纏めてみました。(池田満氏著「ホツマツタヱを読み解く」参照

①ニシノミヤ(兵庫県西宮市付近)

②クマノ・ヨロギノ(琵琶湖湖西)

③富士の裾野

④ダケノイワクラ(高島町岳山)

⑤ヨロイザキ(未詳)

⑥カガミ(蒲生郡 鏡山)

⑦ミカミヤマ(中主町 三上山)

④~⑦はサルタヒコさんを中心に行われたため、サルタヒコさんにミヲノカミの褒め名が下賜されました。

ニニキネ様の特筆すべき功績

ニニキネ様は雷雨が多かった京都盆地を開発に着手します。の多かった京都盆地の害を防ぎ、水を役立てるためにカグツチ神ミヅハメの神に分けて祭りました。アタコに、キフネに祭ったことから、ワケイカツチと呼ばれるようになりました。

このカグツチ神をお祭りする神社が亀岡市千歳町にある愛宕神社です。

このことはアマテルカミのミコトノリにも残されているのでご紹介します。

これまで京都地方は雷雨ばかり激しくて天候が安定しなかった。その雷雨を皇孫ニニキネが、火と水との二つに分けるのに成功したので、日照と降雨とがほどよくなり、稲作も上々である。
この活躍はトコタチ(恐らくクニトコタチ)の神が新たに出現したほどのすばらしさである。だから、これに対し、「イカツチを分けた天君」という呼び名を贈りたい
(松本善之助氏 秘められた日本古代史(続)ホツマツタヱ)

アマテルカミは良く功績を立てた方に讃え名や賞賛を惜しみなく与える方なのですが、きっと最高の誉め言葉なのでしょう。最高権力者が功績を立てた人に最上の誉め言葉を与えるってなかなか出来ないことだと思います。

これはやはりアマテルカミが立場が目下の人たちにもへりくだっておられたことが伺えます。

ニニキネ様の孫にあたるカモヒト:ウガヤフキアハセズ様からカンヤマトイワハレヒコ(神武天皇)から三種の神器が伝授された際に、カガミカアヒ(現:下鴨神社)ヤヘガキワケツチ宮(上賀茂神社)に預けおいたと書かれています。

両社はいずれもニニキネ様縁の神社です。

上賀茂神社

今日はニニキネ様について、ご紹介しました。やはり御祭神の背景を知ってと知らないでは、御祭神に対する感謝の気持ちも変わってくると思いますので、参考にして頂けましたら幸いです。最後までお読みいただきありがとうございました!

参考図書:「ホツマツタヱを読み解く」/ホツマ辞典 池田満氏著書 

ミクサタカラ(三種神器)の鏡の意味

こんにちは!今日はホツマツタヱの記載されているミクサタカラ(三種神器)のカガミの意味について考えてみたいと思います。ミクサタカラ(三種の神器)とは、建国の理念「トノヲシエ」「サカホコ」、「カガミ」のことです。

それぞれ、どのような意味があるのか池田満氏の著書を参考にして、見ていきたいと思います。

ミクサタカラのカガミ(イメージです)

建国の理念トノヲシテ

縄文前期に建国された我が国はトコヨクニと呼ばれていました。池田満氏の著書によると、トコヨクニの理念は

「人々を教導し、恵み和す」ことを国家理念とする「トノヲシテ」を主軸とする「文化立国」「恵民立国」でした。

建国当時のリーダーはクニトコタチに革新をもたらし、クリを中心とする実栽培農業竪穴式住居の考案を行い、

人々の生活を豊かにしました。

この期間を考古学的に見ると、6000年前~3000年頃までの年代になります。

初代クニトコタチから第三代アマカミのトヨクンヌ様の治世ではこの「トノヲシエ」のみで国が平和に治められていました。

しかし、時代の変遷とともに「トノヲシエ」だけでは、国家が纏まらなくなっていきます。

カンタカラにサカホコを追加

しかし、クリドングリなどの木の実は収穫しても3カ月~半年程度の保存期間であり、気候に左右されれば、収穫ゼロのリスクもありました。

これに対し、水田稲作で収穫できる稲籾は一年以上保存可能な上に、気候の影響で不作になるリスクはあるものの、収穫ゼロのリスクを回避できたため、人々の生活は更に豊かになりました。

この豊かさにより、人々の間で貧富の差が生まれ、「妬み」「恨み」により「略奪」などの悪事を働く罪人が出てくるようになりました。

そこで、第六代アマカミのオモタル・カシコネ様の時代に「サカホコ」(昔の剣のようなもの)で罪人を処罰する必要性が出てきたのです。

サカホコ(あくまでイメージです)

作物の減収が起こると、貧富の差が生じるため、どうしても「持たざる者」「持てる者」から略奪する事態が起こります。現代における詐欺も、

豊かさが生んでしまった弊害とも言えます。

そのため、六代アマカミのオモタル・カシコネ様の時代に、カンタカラ(神器)の「トノヲシテ」に「サカホコ」が追加されます。この時代はミクサタカラ(三種神器)ではなく、二種のカンタカラでした。

神社の鳥居の本当の意味

この二種のカンタカラを受け継いだが第七代アマカミのイサナギ・イサナミ様です。この二種のカンタカラのシンボリックが神社の入口に建てられている鳥居なのです。

鳥居の二本の柱は「トノヲシテ」と「サカホコ」を表し、横の橋渡しは「国民に潤いを与える」という意味が込められています。

つまり、鳥居が最初に建てられたのはイサナギ・イサナミ様の時代となります。

ミクサタカラにカガミを追加

この二種のカンタカラカガミを追加したのが、第八代アマカミアマテルカミです。

神社に祀られている鏡を見た時、皆さんはどんな意味があると思われましたか?「己を顧みる?」「自らを内省する?」大体あっています。

では、ホツマツタヱを参考にして、もう少し詳しくアマテルカミの意図を探ってみたいと思います。

ハタレの乱に苦悩するアマテルカミ

「サカホコ」によって、罪人を処罰したとしても、結局は「対処法」みたいなもので、アマテルカミ「騒乱を未然に防ぐことが、真の国民の幸せである」とお考えになりました。(どこまでも賢い方です)

現代にも通じるアマテルカミの教え

物質的豊かさは人々の心の奥底に妬みや恨みを植え付けました。アマテルカミの治世は水田稲作による豊かさを享受する過度期にあたり、ハタレの乱という大きな騒乱が起きた時代でもありました。

この騒乱に加わった人数は70万人9千人(累積?)に及び、アマテルカミはとてつもない数の反乱軍に対処しなければなりませんでした。どのような反乱軍が居たのか池田満氏が詳しく書いてくださっているので紹介します。

ハタレの種類手口
シムミチ恫喝
イソラミチ幻惑
ヰツナミチ武力
キクミチ幻惑
ハルナハハミチ精鋭による武力
アメヱノミチ呪術

幻惑呪術が気になるところではありますが、ではアマテルカミは70万人にも及ぶハタレにどう対処したのでしょうか?

池田満氏の言葉をお借りして紹介します。(一部省略)

ハタレたちは仲間の者たちの欲望を集め合わせて群れ、一般の国民の財産や生命を掠め取って宴を繰り返している。しかし、ハタレたちの心の中をよく見通してみると、自らの心の内から沸き起こる悩みに苛まれていることが、一日に三度も起きている。しかるに、ハタレがいくら天地を揺るがすほどの多人数ではあっても恐れるに足るような者たちではない。

アマテルカミが見事にハタレの心の内を読まれたために、ハタレの乱は無事に平定することが出来ました。

そして、ハタレの騒乱後に、カンタカラカガミが加えられたのでした。(ヲヲンカミはただ優しいだけではなく、指導力統率力にも優れておられた)

当初、ハタレは少人数であったと思われますが、一般人がハタレに惑われやすかったため、70万人にも膨れ上がったと考えられます。自分自身がしっかりすれば、恫喝にひるむこともないし、インチキにたぶらかされることもありません。

ホツマツタヱの一説では以下のように語られます。

アマテルカミは洞察力に優れ、人の心を読むことができる方だったと思うのです。(そのため人選ミスもなかった)それはアマテルカミのお人柄からも伺い知ることができます。

美鈴の所感

この記事を書いてみて思うことは、実は私自身も他人と比較する気持ちやうらやむ気持ちを持っていました。

ですが、神社に通うたびに毎回「バサー」っと祓っていただいているお陰で、今ではそんな気持ちは無くなりました。

本当に不思議なのですが、今ではありのままの自分で良いと思えるし、ありのままの自分が大好きになりました。

私は母からされた仕打ちが心のしこりとなっていました。

しかし、神社に通ううちに、本当に不思議なのですが、その恨みをすっかり忘れてしまったのです。

今では親に対する感謝しかありません。

これも、ひとえにありのままの美鈴を愛して下さっている御祭神のお陰であると思います。

アマテルカミは御父上イサナギ様尊父と語られ、ご両親のイサナギ・イサナミ様に対しては多大な尊敬と信頼を寄せていることが分かります。これは本当に美しいことだと思うのです。

もちろん、親が嫌い、祖父母を尊敬できない方もおられるかもしれません。そんな方は遠い日本人のご先祖様である御祭神に想いを馳せて頂きたいなと思います。私はこのブログで尊敬に値する御祭神を何人も紹介してきました。

実は運勢というものはヨコではなく、タテから来るものだからです。

アマテルカミは上古代の方ですが、現代にも通じる内容であるし、私たちに大切なことを教えてくださっているので、取り上げてみました。

最後までお読みいただきありがとうございました!