富士山に存在した宮

こんにちは!日本人の心の故郷富士山。そんな富士山に歴史から忘れ去られた宮があったことはご存じでしょうか?

遠い昔に富士王朝が存在したとか、忘れ去られた宮があったなど、諸説存在する富士山周辺の宮の謎について、ホツマツタヱの観点から解説したいと思います。

富士山南麓は古来より重要な拠点だった

富士山南麓の宮は存在したのか?

ホツマツタヱでは、富士山南麓に宮が存在したと書かれています。では一体誰がその宮を建てたのでしょうか?

日本(当初はトコヨクニと呼ばれた)を建国をされた初代クニトコタチにはトホカミヱヒタメの8人の御子がいました。8人の御子はそれぞれ、トノミコトホノミコトと呼ばれました。

初代クニトコタチの後を継いだのがヱノミコトで、クニトコタチの拠点琵琶湖湖岸にて、二代目アマカミになりました。

弟のトノミコト富士山の南麓に派遣され、兄のヱノミコトの後を継いでアマカミの位につきます。このヱノミコトとトノミコトを合わせて、クニサツチと呼ばれました。

トノミコトは桑の葉を常食として長命を保ちました。後に富士山南麓に住まわれたアマテルカミ(天照大神)も富士山に生えていたチヨミ草を常食し、長生きされました。

このチヨミ草は不老不死の薬として秦の始皇帝の耳に入り、秦国より派遣された徐福がこの不老不死の薬を求めて、日本に渡来したという説があります。しかしその頃には噴火の影響で既にチヨミ草は無かったようです。

富士山南麓の宮の名称

富士山南麓にあった宮は時代によって様々な呼び名がありました。トノミコトが住まわれた当時は、トシタミヤと呼ばれました。時代は下り七代アマカミ、イサナギ・イザナギは富士山の行宮でアマテルカミを孕んだため、ハラミノミヤと呼ばれました。

アマテルカミはヒタカミ(東北)にて留学生活を終えた後、ハラミノミヤに新宮を建てて、最初の政を行いました。

さらに時代は下り、アマテルカミの孫のニニキネが宮を再築して、ハラアサマミヤ(ハラミヤ)と呼ばれました。

富士山南麓に住まわれたアマカミ宮の呼び名
トノミコトトシタミヤ
イサナギ・イサナミハラミノミヤ
アマテルカミハラミノミヤ
ニニキネハラアサマミヤ

富士山南麓に憧れを抱いた方

後世、この富士山南麓に強い憧れを抱く方が現れます。それがヤマトタケ(日本武尊)さんです。ヤマトタケさんは時代が下って、景行天皇の二番目の皇子として生まれます。

国を豊かにし、長寿を保ったトノミコト・アマテルカミに深い尊敬の念を抱いたのです。

しかし、ヤマトタケさんは志半ばで早世してしまいます。妻のミヤヅヒメニニキネの長男:ムメヒトの子孫)はヤマトタケさんのミタマを入れた輿と共に、ハラミノミヤへ向かいます。

ヤマトタケさんがソサノヲさんを慕った理由

余談ですが、ヤマトタケさんはソサノヲさんと境遇が似てたため、ご自身をソサノヲさんの生まれ変わりと信じていました。二人ともアマカミ・スヘラギの御子ですし、そして弟の立場です。

自身の近親者がハタレ(朝廷に逆らうもの)になってしまい、縁故の人々を成敗しなくてはならない境遇に陥りました。敵陣の忍び込んで、ハタレの首謀者を打つのです。

ヤマトタケさんは無事に反乱を収めたことを感謝して、ソサノヲさんを祭る社をいくつも建てます。

ヤマトタケさんはソサノヲさんと雰囲気が似ていますが、別人です。そして過去にちゃんと実在した方です。(ヤマトタケさんとお会いしたエピソードも書く予定です。)

景行天皇の皇子として生まれるヤマトタケさん

富士山という名称はいつ頃ついたのか?

古代には富士山は様々な呼び名がありました。ハラミヤマ・オオヒヤマ・ヒノヤマ・カクヤマ・ハラヤマ・オオヤマ・ナカミネなどの名でヲシテ文献に登場します。

次代は下り、七代スヘラギ(アマカミの名称はスヘラギに変わります)フトニノキミ(孝霊天皇)は富士山に行幸します。その際に田子の浦の住人が藤の花をフトニノキミに献上します。

これにより、フジノヤマという新名がつけられて、今の富士山の名前の由来になっています。

富士の宮があった場所はどこ?

ハラミノミヤがあったところは、富士山本宮浅間神社(富士宮市大宮町周辺)のあたりが有力候補とされています。今回は古代のアマカミが愛した場所、そしてアマテルカミが誕生された地、富士山の宮の秘密に迫りました!

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

参考図書:ホツマ辞典(池田満著)

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