こんにちは!以前、ヤマトタケさんの記事を書くと宣言してから随分日が経ってしまったので、今日はヤマトタケさんについて書きたいと思います。
ヤマトタケさんとは日本武尊(ヤマトタケルノミコト)と呼ばれる方です。景行天皇(西暦298年即位)の御子でコウスノミコと呼ばれました。イミナ(本名)はハナヒコといいます。
ご先祖様愛と愛国心が強く、天皇の期待を一身に背負って日本各地の反乱軍を討伐します。東国のエミシ征伐を行ったため、関東各地でもヤマトタケさんに縁の名所がたくさんあります。
ヤマトタケさんは文武両道
ヤマトタケさんは武道に長けていただけではなく、ワカを読む風流な一面もありました。こちらはヤマトタケさんが東国遠征の際に詠んだウタです。
ニニキネ様とは第10代アマカミで兄のホノアカリ様との二朝廷で政務をとられていました。しかし、ニニキネ様の功績が大きかったため、ニニキネ様の朝廷が本流になっていきます。
その背後には、度重なる都移しのご苦労があったのです。ニニキネ様のご苦労を労い、ご先祖様に感謝しましょうという意図で詠まれたウタなのです。
また、ヤマトタケさんはご自身をソサノヲさんの生まれ変わりと信じていたため、ソサノヲさんを祭る社を各地に建てます。
ヤマトタケさんは実在された方
幼い頃はヤマトタケの銅像を見て「日本武尊(ヤマトタケルノミコト)という方か、きっと偉い人なんだな」と思ったのですが、具体的な功績は分かりませんでした。
亡骸が見つからなかったので、実在を疑う説もあります。ですが、私は神奈川県足柄上郡松田町に鎮座する寒田神社、神奈川県厚木市小野に鎮座する小野神社でヤマトタケさんに(スピリチュアル次元で)お会いしていますので、実在した方です。
ここまで読まれた方は、そもそも名前はヤマトタケルではないのか?と思われたかもしれません。実は、ホツマツタヱにヤマトタケと記載されているため、当ブログではヤマトタケさんとお呼びします。
御父上は長命のヲシロワケ(景行)天皇
ヤマトタケさんの父君は景行(ヲシロワケ)天皇です。とても長生きされた方で、ヤマトタケさんを授かったときの年齢はなんと84歳!崩御した年齢はなんと142歳!とされています。ヤマトタケさんの母君はハリマノイナヒヲイラツメです。(秘められた日本古代史ホツマツタヱ 松本善之助著 参考)
景行2年12月15日餅つきの臼のそばで餅花を作っている最中に産気づき、ヲウスミコ(兄)、コウスミコ(弟)の双子の兄弟を出産します。
景行天皇の皇子は55人、姫26人の合計81人であったとホツマツタヱにあります。
ホツマツタヱはこのヲシロワケ天皇の命により、オオタタネコさんによって編纂され、ヲシロワケ天皇に献上されました。この編纂の背景にはヤマトタケさんの強い思いがありました。
そもそも、東国と朝廷の諍いの原因は歴史の認識違いが生んだものでした。そのため、ヤマトタケさんは国書を早急に編纂を急がれたのです。しかし、志半ばでヤマトタケさんは早世してしまいます。
ヤマトタケさんの御意思はヲシロワケ天皇に受け継がれました。ホツマツタヱを語る上で、ヤマトタケさんは外せない方なのです。
ヤマトタケさんの活躍
九州に朝廷に従わないクマソという集団がいました。クマソは住民にも乱暴を働いたので、困った住民は征討軍の派遣を朝廷に頼みました。そして、当時94歳にもなっていたヲシロワケ天皇自ら九州へ出陣します。(なんともバイタリティ溢れる天皇ですね!)
天皇はウサ(宇佐)、ミケ川(豊前市、中津市周辺)タカハ(田川市周辺)の賊を次々に討伐します。無事に平定を終えた天皇は実に8年ぶりに奈良のマキムキの都(奈良県桜井市纒向)に戻ります。
そしてその15年後、再度クマソは朝廷に背きます。天皇は既に高齢のため、立派な青年に成長したヤマトタケさんに白羽の矢が立つのです。
命が下った二か月後、早くも現地に到着したヤマトタケさんはクマソの首領タケルが大宴会を催すことを聞きつけます。乙女の姿に変装したヤマトタケさんは剣を隠し持ち、大宴会に忍び込みます。
すっかり酔った首領タケルは女装したヤマトタケさんを朝廷軍の皇子とは知らずに、宴席に連れて行こうとします。頃合いを見計らってヤマトタケさんはタケルの胸を剣で刺します。
息も絶え絶えになったタケルは自分よりも更に勇猛なヤマトタケさんに驚き、臨終間際にも関わらず驚嘆します。そして「これからはヤマトタケとお名乗り下さい」と告げたのでした。
クマソを討ったヤマトタケさんはアナ(福山市)、キビ(岡山県)、カシハ(大阪市)一帯の賊も討伐します。
自分を誇らないヤマトタケさん
自ら敵の懐に単独で侵入し、身の危険を顧みず功績を上げたヤマトタケさんは「我こそがクマソを打ち取りました!」なんて言いません。「スヘラギ(天皇)のお陰でクマソを討伐できました」と報告します。(どこまでも謙虚な方です)
西国の混乱を収めた後は、東国へ
西国を無事に平定した後、今度は東国でエミシという集団が朝廷に背きます。ヤマトタケさんは「東国の平定は双子の兄のヲウスノミコが相応しいでしょう」と進言します。
しかし、兄のヲウスミコは怖がり、やむを得ずヤマトタケさんに命が下ります。
ヤマトタケさんのホツマ討ち
東国(今の関東地方)はホツマの国と呼ばれていました。上古代は平和であったホツマ国ですが、時代が下りエミシという朝廷に逆らう集団がはびこっていました。
東国へ出征することになったヤマトタケさんは叔母のヤマト姫に出陣の挨拶をし、ムラクモの剣とヒ・ミツのハラヒ(火・水の祓い)の巻物を授かります。このムラクモの剣はソサノヲさんが出雲でオロチ(悪党の集団)を討伐した際に得られた剣です。
ムラクモとは群がる暗雲の意味があり、ハタレなどの蛮族を征伐する際に使われてきた剣なのです。
ムラクモの剣はソサノヲさんから子孫へ受け継がれ、神武天皇に渡り、崇神天皇の時代にミツエシロ(斎王)へ受け継がれました。最終的に熱田神宮に奉納されます。
ヤマトタケさんにとって東国平定は断腸の思いでした。なぜかというと、東国にはヤマトタケさんの愛妻であるヲトタチバナ姫の実家(神奈川県厚木市小野周辺)があり、姫の実家も朝廷に反発していたからです。
愛妻の実家を攻めたくないヤマトタケさんは和平に持ち込みたい一心でした。しかし、ヲトタチバナ姫の親類縁者はヤマトタケさんを鹿狩りに誘い出し、あろうことか火を放ちます。(静岡県の焼津周辺とされる)
そこでヤマトタケさんはヤマト姫から授かったヒ・ミツのハラヒを唱えます。すると不思議と風が逆方向に吹いてヤマトタケさんは助かります。
抗戦の構えを見せる妻の実家を攻めなくてはならなくなりました。70日間に及ぶ火責めの準備を行い、妻の実家に火をかけます。いよいよ小野の要塞が陥落する間際に、ヤマトタケさんは再度ヒ・ミツのハラヒを唱えます。
富士山山頂のコノシロ池に住むというタツタノカミが現れて、小野の要塞に雨を降らせます。焼け落ちる要塞から何とか妻を助け出します。
ここまでがエミシ征伐の話となります。それ以降の話はまた別の機会にご紹介します。
次回はヤマトタケさん縁の神社について書こうと思います。最後までお読みいただきありがとうございました!
参考図書:ホツマで読むヤマトタケ物語/ホツマ辞典 池田満氏著